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死のかなたにあるもの
第二コリント5:1~11

私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからではなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。

すべての人には終わりがあります。パウロ先生的に言うならば、地上の幕屋が壊れる時があるということです。しかし、我らには、神の下さる建物があるのです。

死のかなたにあるもの。

(1)天上のからだがあるということです。天上のからだは、栄光のからだです。

(2)あなたの居場所があるということです。

ヨハネ14:1~3

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

主イエス様のそばほど、居心地の良い場所はありません。

(3)「わたしはある」という方がおられるところです。

黙示録21:3

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、

光の中に住まわれる栄光の神を目の当たりにできる、想像を絶する喜びです。
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キリスト者の香り
IIコリント2:14~3:3

しかし,神に感謝します。神はいつでも,私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。

私たちはまたもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人のように、あなたがたにあてた推薦状とか、あなたがたの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。


クリスチャンには、キリストの香りがするはずですね。では、キリストの香りとは、どんな香りであるのでしょうか。

1)愛の香りです。赦すということにおいて香ります。

2)人に仕える心、助ける心の香りがします。

3)真理を愛し、罪を憎む香り。

〈ちょっと一言〉

私は本箱4つぐらいの信仰良書は読んでいると思うのです。けれど、読んだという自己満足だけで、自分の血となり肉となっていないのです。知識は人を高ぶらせ愛は人の徳を高めるという言葉の重みをよくつかんで、聖書読みの聖書知らずにならないように気をつけたい。
永遠への旅人
第2コリント4:18

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。


 私たちは、見えないものを見る目を持つことが大切です。そのために、

1)見たり触れたりすることのできない世界こそ、まことの世界であるということを認識したい。

2)現象面を見る視点から原型を見る視点に変えること。

3)人にとって真に大切なことは魂の癒しであること。

〈ちょっと一言〉

 「年若い両親のかわいい幼児が水槽に落ちて溺れ死んだ。両親にとって言語に絶する打撃である。これでも神は愛なりと言えるであろうか。そうだ、幼児のゆえに神は愛なりと知ったのではなく、キリストのゆえに神は愛なりと知ったのだ。神はその愛するひとりごを十字架に給うた。それによって我らは、神は愛なりと知ったのである。この信仰にしがみついていれば、掌中の珠を急に召された悲嘆すら、人生におけるすべての経験と関連しあって我が益となることを知るのである。若き両親よ、このことによって慰めと希望を与えられよ。」矢内原忠雄「嘉信の一節 その人は慰められん」より
永遠の求道者
IIコリント12章1~13

 

無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は14年前に―肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、―第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、―それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、―パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に1つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
  私は愚か者になりました。あなたがたが無理に私をそうしたのです。私は当然あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。たとい私は取るに足りない者であっても、私はあの大使徒たちにどのような点でも劣ることはありませんでした。使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間で行われた、しるしと不思議と力あるわざです。あなたがたが他の諸教会より劣っている点は何でしょうか。それは、私のほうであなたがたには負担をかけなかったことだけです。この不正については、どうか、赦してください。


 ものを考えないところに、恥を恥ともおもわない浅はかさがある。ものを考えるとは、己のたらなさを知るということである。パウロは、「私は、すでに得たのでもなく、ただ捕らえようとして、追求しているのです。」と言っている。わたしたちも、真理の道、愛の道を求め続けるひたむきな者でありたいですね。

《ちょっと一言》

 忘れること………・・…… 人の失敗 
 忘れてはいけないこと……………… 自分の失敗
 これを忘れると、高慢な人になり、これを守ると、謙虚な人になる。

IIコリント8:1~5
 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

 24~25歳の女子青年にしても、ダミエン神父にしても、神に献身していることを思うとき、己は、どれほど、キリストの愛が迫っているだろうかと心もとない。
 ひもつきでもなく、条件つきでもなく、心から喜んで、神に生涯を献身したいものですね。

《ちょっと一言》

 最近、大きな試練にあっている親子から、電話をいただいた。
 目の前が真っ暗になっているときに、この教会で歌っている賛美を聞いたところ、そのうちの二曲が、今は亡き母親の愛唱歌であり、二人で声を合わせて歌っていたら、大変なぐさめられて、希望が出てきた・・・ということでしたが、それを聞きながら、確かに賛美は力である、人生を逆転させる力を持っているということを知った。

 主をほめよ!!
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