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約束手形
1コリント15:20

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

復活ということは、相手を生かすということですね。死につつある人、弱っている人を生かす力であります。
神は人を愛しておられますので、死で永久に別れてしまうことに耐えられず、我々を何とか永久に生かして共にいたいと思っていらっしゃいます。そこでキリストを死者の中から初穂として復活させられました。これは私たちへの約束手形で、私たちにも復活は現実となります。

〈ちょっと一言〉
「優しい言葉で相手を征服できない人は、いかつい言葉でも征服できない」 ロシアの小説家チェーホフ
優しい人、威張らない人は偉人であると思う。上の言葉をよく考えたい。
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生き方チェック
第一コリント9:23~27

私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。


電車の運転手は、安全チェックをしながら運転しています。聖書は、我々に生き方チェックを勧めています。

(1)信仰チェックです。
第二コリント13:5

あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか―あなたがたがそれに不適格であれば別です。―

私たちの生きてゆく力は、全部、上から来るからです。神の力を受ける管が、信仰です。

(2)自分チェックです。
第一テモテ4:6

これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になります。信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばとによって養われているからです。

神の使徒パウロも、失格者にならないために、自分の体を打ち叩いていると言っています。朽ちない冠を得るために、辛抱、辛抱、と自分に言い聞かせていたのでしょう。

(3)再臨待望チェックです。
黙示録22:7

「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

黙示録22:12

「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

黙示録22:20

これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

主イエスは、「見よ。わたしはすぐに来る」と三度、言われています。この主を、待ち望みましょう。
いつまでも残るもの
第一コリント13:13

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

創世記に記されているヤコブ、後のイスラエルの生涯は、一言で言うと、波乱万丈の生涯でした。ヤコブは、天に召される日が近づいたとき、12人の子どもらを呼び寄せ、一人一人に祝福を祈り、眠るように御国に帰ってゆきました。
147歳のよぼよぼの身体を杖で支え、天地の神を礼拝し、賛美し、祈り召されてゆきました。色々なことがありましたが、このヤコブを支えてきたものは、主なる神を信じる信仰でした。そして、御国に住めるという希望でした。そして、いつまでも残るものの最高峰は、愛です。
神の愛、人の愛を心に刻みながら、天へのぼっていきました。私たちも、神を愛し、隣人を愛して、日々、歩みましょう。
アブラハム信者とロト信者
1コリント3:1~9
 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は、「私はアポロに」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

 救われている人でも、霊的な人と肉的な人に分けられます。ロトは肉的な人で、いつも欲が中心でした。その結果、周りの人々に良き感化を与えることができませんでした。
 アブラハムは霊的な人で、いつも御言葉中心で、神との交わりを大切にし、犠牲的精神、献身的精神で、この世で生活しましたから、良き感化を与えることができました。

〈ちょっと一言〉

 罪意識の鈍さが、数々の悲劇をこの世にもたらしていると思う。生半可な聖書知識のゆえにもたらす争いは、この世の争いよりさらに悲劇的だ。イエス様も、パリサイ人、祭司、律法学者たちには、ほとほと往生したようだ。自分もその中のひとりだと思うので、困っている。罪意識の鈍さに、心が痛い。神よ、助けてください。
こだわり
第1コリント2:2
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

 こだわるということは、我々の人生の中でも大切なことだと思います。
 気迫ある生涯を送った使徒パウロのこだわりをお伝えします。

(1)十字架につけられたイエスキリストにこだわっています。

ガラテヤ6:14
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

 今までは、ピリピ3:5のように、誇るところがいっぱいありましたけれど、そんなものは実にくだらんということがわかりました。

ピリピ3:5
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれのものです。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、

(2)聖書にこだわっています。

ローマ4:3
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが神の義とみなされた」とあります。

ローマ10:11
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

ガラテヤ4:30
しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

 聖書はなんと言っているか。それが歩みの土台でした。

(3)信仰にこだわっています。ローマ書を読むと特にそうです。
 信じるというのは、関係のかなめです。神を信じる信仰にこだわっています。

ローマ3:21~28
 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
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