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聖書の教える子育てのすすめ
エペソ6:4

父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

作物を育てる、花を育てるにしても、苦労と喜びが交差します。子育てに関しても、苦労と喜びが交差します。命をはぐぐむということは、一生ものだと思います。では、どのようにわが子の命を育んでゆけばいいのでしょうか。

(1)「主の教育と訓戒によって育てなさい。」聖書を人生という家の土台とすることです。「聖書は、こういっているよ。」アブラハム・リンカーンの母親がそうでした。

(2)目線を合わせるということです。

第一コリント9:20~22

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、―私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが―律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。

何のために、そうするかというと、より良い関係を築くためです。目線を合わせると、同じ風景が見られて、喜びと悲しみを共有できるからです。
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この道を行こう
エペソ5:1~2

1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

私たちの人生には、色々な道があります。でこぼこ道、長い坂道、行き止まりの道。朝目覚めると、誰しも、新しい道が用意されています。どのような道を主は、歩みなさいと教えているでしょうか。

(1)愛の道です。(2節) 愛のうちを歩みなさい。神からいっぱい愛を受けました。そのおすそ分けをしながら歩みましょう。

(2)光の道を歩みましょう。

エペソ5:8

あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

光の子どもらしく歩みなさい。光の道とは、善意、正義、真実の道です。厳しい道ですね。自分は損をしても、人様の益となるような歩み方をしてゆきたいものですね。
賢い人
エペソ5:15~16

そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。

神は、「賢い人になりなさい」と言われています。賢い人は、少なくとも3つのものを身につけています。

(1)信仰です。救い主イエスを信じる信仰を働かせることにより、どのような問題であっても、乗り越えることができます。

(2)希望を持っています。こうなってほしいという望みを抱いて歩みます。信仰の父と尊敬を受けているアブラハムも、永遠の神の都に住めるという希望を抱いて歩んでいました。

ヘブル11:13~16

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

(3)愛を実践しています。「使徒の働き」9章に、クリスチャンのタビタのことが記されています。彼女は、自分のできる裁縫で、貧しいやもめたちの下着や上着を編んであげていました。自分も周りの者たちも幸福でした。
とぎすまされた良心
エペソ4:1~16
さて、囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは1つ、御霊は1つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが1つであったのと同じです。主は1つ、信仰は1つ、バプテスマは1つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は1つです。しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。そこでこう言われています。
「高い所に上られたとき、
彼は多くの捕虜を引き連れ、
人々に賜物を分け与えられた。」
--この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです--こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、1つ1つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

私たちの人生の歩みを振り返ってみると、今まで自分の目には正しいと思えていたことが、神の目から見ると、自分の心が冷ややかだったことに気がつくことがあると思う。良心も気をつけていないと、だんだん鈍くなって、罪を感じることが少なくなってくる。
日常生活の中で、何が大切かと言えば、きよい良心が大切だと思う。御言葉によって良心を、いつもとぎすましていたいものですね。

(ちょっと一言)

「やれ打つな、ハエが手をする足をする」という俳句があるが、汚いハエでも、そんな表情をされるとあわれに思えて、怒りが和らぐ。
私も打たれても仕方のないハエのような存在だけれど、神に「なぜ打つのか」と居直らないで、心から済まないという気持ちを失わないで過ごしたいと思う。済まないと思う心には、素晴らしい自由がある。素直な喜びがあふれてくるからです。
エペソ6:1~3
 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。

 ひとり子さえ惜しまないで我々に与えてくださった神が母を与えてくださったことを知るときに、我々は、己が母を敬い大切にするのは当然のことだと思う。そして、何よりの親孝行は、天国への救いに導くことである。
 そして、信仰を持つ母の子なら、その信仰を受け継ぐことが親孝行である。

〈ちょっと一言〉

 空き地の雑草は、すぐ成長して私を悩まし、不愉快にさせる。同じように、私の心の雑草も、どんどん伸びて、人を不愉快にしている。
 その雑草の中に、小さな野の花が咲いている。私の心の中に、可愛い野の花が一杯咲けばよいのに・・・
 そうだったら、私も、生きていてよかったと思うだろう。

 主よ。私の魂をいやしてください。
 私の罪を赦してください。
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