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あなたの生きてゆく力はどこからくるの?
第二列王記6:1~7

預言者のともがらがエリシャに、「ご覧のとおり、私たちがあなたといっしょに住んでいるこの場所は狭くなりましたので、ヨルダン川に行きましょう。そこからめいめい一本ずつ材木を切り出して、そこに、私たちの住む所を作りましょう」と言うと、エリシャは、「行きなさい」と言った。すると、そのひとりが、「あなたもどうか、思い切ってしもべたちといっしょに行ってください」と言ったので、エリシャは、「では、私も行こう」と言って、彼らといっしょに出かけた。彼らは、ヨルダン川に着くと、木を切り倒した。1人が材木を倒しているとき、斧の頭を水の中に落としてしまった。彼は叫んで言った。「ああ、わが主。あれは借り物です。」神の人は言った。「どこに落としたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切って、そこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。彼が、「それを拾い上げなさい」と言ったので、その人は手を伸ばして、それを取り上げた。


人には、様々な人生設計があると思います。自分たちの住んでいる場所が狭くなってきたので、もっと大きいものを建てようという人生設計です。借りてきた斧で、木を切り倒していたとき、斧の頭が川の中に落ちてしまったというハプニングです。斧の頭は、生きる力を象徴しています。失った斧の頭を一本の枝によって取り戻しました。この枝は、キリストの十字架の御姿を象徴しています。場所が狭くなったというのは、生きづらく感じている人の心を表しています。赦せない、愛せない、と息苦しく感じるとき、主が私を赦してくださったのだから、私も赦します、愛します、と不思議に心穏やかになってきます。
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悩んでいるあなたへ
第二列王記5:1~14

アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを直してくださいますように。」イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入り口に立った。エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。


頑張っても、頑張っても、人生どうにもならないときがありますし、真面目にコツコツ苦労を積み重ねてきても、思わぬことが起きて、その道がふさがってしまうときがあるものです。このところに登場するナアマンも、悩みの中にありました。何もかもそろっていても、ひとつの問題がある。それが大きな陰を落としていたのです。ナアマンが悩んでいることを、神が気にかけ、救いの道を用意されて、働きかけてくださいました。ナアマンは、だめでもともとと、ともかくも、一歩踏み出しました。その思いが救いの神の言葉に向いたとき、ナアマンは救われ、平安と喜びを持つに至ったのです。あなたを造られた御神は、あなたの人生に将来と希望と平安を与えてくださいます。
民よ、どんな時にも
第2列王記4:1~7
 預言者のともがらの妻のひとりが、エリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持ってくる器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持ってきなさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

 すべての人に悩みが有り、逆境がある。そんな時に、頼るべき方があり、避け所を持っている人は幸いです。
 主に信頼する者は、決して失望させられることはない。
 ひとりごを賜わった神をどんな時にも信頼して生きましょう。

《ちょっと一言》

 乾けるパンの為に祈り、孤独で泣いた人でないと、人の心の機微が理解できない。とある本に書いてあった。飢えと孤独は、人生で一番苦しい人間の試練の場だと思う。しかし、そこにも主のみ跡を見る。クリスチャンよ、そこに慰めを得よ。
勇士ではあったが……
第二列王記5:1
アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。

 誰でも、たとえ物質的に恵まれていても、心が清くないと幸せではないと思う。愛せない、許せない心。人の失敗をほくそえむ心……そんならい病のような心。
 イエス様を信じる時、完全に赦される。このお方に、生涯ついて行こう。

《ちよっと一言》

 自分は、つくづくと軽い人間だと思う。また、人の優しさに、すぐ、あぐらをかいたりする甘い者だと情けなく思う。
 その原因は、考えない心、反省しない心から出ているようだ。
真の平安
第二列王記5:14
そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

 外面的にすべて整っていても、心が平安ではなかったら人は幸福ではありません。人は罪を持っていて、心安らぐことがありません。罪がゆるされて、初めて真の平安を持つことができます。
 ナアマンは、どんな経路を通って、その病が癒やされたのでしょうか。

1)自分に真実に話してくれる人の言葉に耳を傾けた。

2)彼は、エリシャを捜しに行き、逢いました。

3)預言者の言葉通り信じて、実行したので新生した。

     (ちょっと一言)         

第一サムエル1 2 : 24
ただ主を畏れ心を尽くして誠実に主に仕えなければならない。

 家庭に恵まれない子供たちのお世話をしている石井さんは、「何時も神様の前に正直に生きようと話しています。神の前に正直に生きることから生れる木当の喜びを知ると、自然に隠れた非行から離れていきます。」といわれています。
 我々も神の前に正直に生きられるよう務めましよう。
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