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この教会の信仰姿勢
ガラテヤ5:6
キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

 何時も、聖書は何と言っているかを、生活の基盤にしたい。
 そして、信仰が愛を越えたら人を傷付けるということと、正しいことより大切なことがあるということとを心の基本としたい。

《ちょっと一言》

 天声人語に書いてあったが、休の不自由な張さんが、「恐ろしいのは病気ではない、前に進む心を失うことだ。病気は苦痛です。でも、何もせずに生きていることはもっと苦痛です。」と言われている。良い言葉だ。私も、泣き言を言わず、くじけないでやっていきたいものだと励まされた。
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人の救われる唯一の方法
ガラテヤ2:16、20~21
しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。

 人間は、神様の律法を一つでも破れば、天国に入れない。けれど、誰一人として完全に守った人はいない。
 神は、イエスキリストの十字架の死のゆえに人間の罪を許す方法を与えられた。イエス様の血はすべての罪を清くします。

《ちょっと一言》

 神様の御用に役立つ人はどんな人でしょう。地位があり、才能がある人でしょうか。あるいは、財産があり、抜目のない人でしょうか。いいえ、神様の用いられる人は、主のしもべであるという謙遜な心を持っている人です。
キリスト者生活とは
ガラテヤ4:7
ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

1節~3節 律法のもとにある人間の状態

4:1~3
ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。

4節~7節 キリストにある人間の状態

4:4~7
しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

 律法の下で、奴隷のように苦しい生活をしていた我々を、主がご自分の命を支払って、買い戻して自由の身分として下さったのです。
 神の子の身分の幸い。神を父としてしたしく祈れる幸い。

30節
しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

 「聖書は何と言っていますか。」これが、すべての我々の人生の道標として重んじられているでしょうか。

《ちょっと一言》

 わたしたちは、世慣れてくると、良心が麻痺し、世と妥協し、世と歩調を合わせて生活している。それを、しばしばキリスト者の寛容であると錯覚している思いが強いのではないでしょうか。
 人の悪を見て、見て見ぬふりをすることが寛容ではなく、その人が悪から離れてゆく為の最善の努力を惜しまない温かさが寛容であると私は思う。
十字架に付けられたイエス
ガラテヤ3:1
ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。

 このところを読むと、律法とは、どういうものか、福音とは、どういうものか、が語られている。
 律法により、良心が目覚め、自分が神の前に立てない律法違反者であると知る。福音は、イエスを救い主と信じる者は、誰でも神に受け入れられる、と告げる。
 信仰により、9節、14節、22算、24節、26節などの祝福を受ける。

3:9
そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

3:14
このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

3:22
しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。

3:24
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

3:26
あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

《ちょっと一言》

 まったく思いがけない下痢に悩まされて、二日、休ませていただいた。日頃、健康の有難さを思っていたつもりであったが、それをなくして、改めて、食欲のあること、起きて動けることの有難さを強く感じた。そして、皆様の温かい心のこもった手料理を頂いたが、肉親のようなお心違いが身に染みたことです。
 ついつい恵みに慣れて、ないものに目を止め、つぷやき、不平不満で心を暗くし、いじけやすい者ですが、祈りの手、愛の手の支えに目を止めて、日々感謝する、今日の糧としたいと思ったことです。
キリストのしもべの心意気
ガラテヤ1:10
いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

 キリストのしもべの心は、人を怖れず、人のご機嫌をとるようなことはしない。ただ、ひたすら主の歓心をのみひこうと努める心である。

 このガラテヤ書は、偽教師たちが「パウロの話る福音が正しくない」、あるいは、「彼には、使徒としての権威がない」と教会をかき乱していたので、パウロが、その誤解を解く為に、ガラテヤの諸教会に書き送ったものである。
 「自分が使徒となったのは、キリストから直接、任命されたものである。そして、福音とは、イエスを救い主と信じる者が救われるのである。他に、何かを付け加える者は呪われよ。」

《ちょっと一言》

 ある病室の窓から、二人の人が外を見た。 
一人は、上の星を見て、詩が生れ、
一人は、下の泥を見て 不平を言った。
 わたしたちの環境が、どのように苦境の場であろうと、我々が見ているものによって、その見ているものに似て人生は作られてゆくのではないでしょうか。
 友よ、あなたは毎日何を心の目で見て生きているのですか。

ヘブル12 : 2 
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
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