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人生のお手本
第一サムエル2:26

一方、少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。

人には、良きお手本が必要です。あの人のように自分も生きてゆきたい、というようなお手本が必要だと思います。ここに登場するサムエルも、私たちの良きお手本になると思います。なぜなら、彼は、神にも人にも愛されたと記されているからです。神にも人にも愛される人柄は、どのようにして培われてきたのでしょうか。

(1)「祈りの膝を持っていた」からだと思います。

第一サムエル7:9

サムエルは乳離れしていない子羊一頭を取り、焼き尽くす全焼のいけにえとして主にささげた。サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。それで主は彼に答えられた。

(2)「清い手を持っていた」からだと思います。

第一サムエル12:2~4

今、見なさい。王はあなたがたの先に立って歩んでいる。この私は年をとり、髪も白くなった。それに私の息子たちは、あなたがたとともにいるようになった。私は若い時から今日まで、あなたがたの先に立って歩んだ。さあ、今、主の前、油そそがれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを苦しめ、だれかを迫害しただろうか。だれかの手からわいろを取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、私はあなたがたにお返しする。」彼らは言った。「あなたは私たちを苦しめたことも、迫害したことも、人の手から何かを取ったこともありません。」

(3)「遠くを見る目を持っていた」からだと思います。

第一サムエル19:20

そこでサウルはダビデを捕らえようと使者たちを遣わした。彼らは、預言者の一団が予言しており、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。そのとき、神の霊がサウルの使者たちに臨み、彼らもまた、預言した。

将来を見据えて、預言者を育成していました。
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暗い気持ちが晴れやかに!
第一サムエル1:1~10

エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。この人はエロハムの子、順次さかのぼって、エリフの子、トフの子、エフライム人ツフの子であった。エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はぺニンナと言った。ぺニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、主の祭司ホフニとピハネスがいた。その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のぺニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。しかしハンナには特別の受け分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。彼女を憎むぺニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ぺニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」
シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。


私たちは、生きてゆく中で色々なことで悩みます。人間関係がうまくいかないことは深刻な悩みです。そのふさがれた道を主は「エパタ」(開け)と開いてくださいます。ハンナは、ぺニンナの嫌がらせを度々受けて、食事ものどを通らないほど悩み苦しみました。その悩みの中で、ハンナはどうしたのでしょうか?
ハンナは、万軍の主に向かって祈りました。我々も、これに学ぶことはできないでしょうか。主は、その祈りに答えて、閉じられていた胎も、ふさいでいた気持ちも、「エパタ」と開いて、ハンナに平安と喜びをお与えくださいました。生まれた子の名を「サムエル」(主は聞かれる)と名付けました。
悩み多き人生の中で、どう生きる!?
第一サムエル30:1~6

ダビデとその部下が、三日目にツィケラグに帰ってみると、アマレク人がネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。彼らはツィケラグを攻撃して、これを火で焼き払い、そこにいた女たちを、子どももおとなもみな、とりこにし、ひとりも殺さず、自分たちの所に連れて去った。ダビデとその部下が、この町に着いたとき、町は火で焼かれており、彼らの妻も、息子も、娘たちも連れ去られていた。ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。ダビデのふたりの妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。

ダビデの人生に、思いがけない出来事が起こりました。その出来事のゆえに、ダビデは非常に悩んだと記されています。今まで苦楽を共にしてきた仲間たちから、「お前のせいでこうなったんだ」と詰め寄られて、命の危険を感じていたからです。この悩みの中で、ダビデはどうしたのでしょうか。

(1)「神によって、奮い立った。」 つまり、みことばと祈りによって、この苦境を乗り越えることができました。

(2)主から賜ったものを、分かち合いました。ダビデの人生観は、「主が私たちに賜ったもの」、それを互いに分かち合うことを心がけていました。
主に願いを
第一サムエル1:1~20

エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。この人はエロハムの子、順次さかのぼって、エリフの子、トフの子、エフライム人ツフの子であった。エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はぺニンナと言った。ぺニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、主の祭司ホフニとピハネスがいた。その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のぺニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。しかしハンナには、特別の受け分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。彼女を憎むぺニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ぺニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上のものではないのか。」
シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではいません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。
翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を主に願ったから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。


私たちは生きてゆく中で色々な願いを持つ者です。ハンナにも願いがありました。夫が自分だけを愛してくれることでしたが、その願いは、むなしく地に落ちて、ぺニンナという人が、新しく夫の妻として家に入ってきました。自分には子どもができず、ぺニンナには、次から次へと子どもができました。そして、ぺニンナの陰湿な嫌がらせが続き、ハンナは孤独と失望感の中で、もう、頼るべきお方は、主しかいない、と心が定まったようです。これが、苦境の中で、最高の解決策です。
ハンナの主への願いは聞き届けられ、「聞かれる」という意味の「サムエル」が生まれました。みなさんも、心を注ぎだして、主に願うなら、主はあなたにも、待ち望んでいたサムエルを与えてくださることでしょう。
勝利ある人生のスタイル
第一サムエル17:36~40

このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」ダビデはそれを脱ぎ、自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。

この世を生きるということは難しい戦いです。山あり谷ありです。それぞれの状況の中で、勝利してゆけるスタイルがあります。ここに登場しているダビデの生き方から学びたいと思います。人生の途上で、ゴリアテという困難と闘わなければなりません。ゴリアテは、イスラエルの兵士がみな、しり込みする大男でした。しかし、ダビデは、三つのスタイルで勝利しました。

(1)自分流。人のよろいを脱ぎ、羊飼いのスタイルで。

(2)自然流。武器は、川辺の石と自然の木(羊飼いの杖)を用いました。

(3)活ける神により頼む信仰流。万軍の主の御名により戦い、勝利しました。
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