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倒れても また起き上がる人生
箴言24:16

正しい者は七たび倒れても、
また起き上がるからだ。
悪者はつまずいて滅びる。



私たちは、色々な出来事により、倒されるものです。人の言葉や態度により倒れるものです。また、経済的にも、病気によっても倒される時があります。しかし、聖書ははっきりと、倒されても、また起き上がる人生があるのだと教えています。ヨブ記に「木には望みがあります。たとえ切られてもまた、芽を出し、その若枝は絶えることがない」とあります。内に命があれば、また、芽を出すのです。では、どうしたら、倒されてもまた起き上がることができるのか。聖書は、古い服を脱ぎ、新しい服を着なさいと教えています。聖書が言う新しい服とは何でしょうか。それは、ローマ13:14(追記を参照のこと)に書いている、主イエスを着なさいということです。それは、どんな時も主イエスを信頼して、この方に頼ってゆく生き方です。主が、立ち上がらせてくださいます。
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生き方上手
ダニエル12:8~13

私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう。」彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行い、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人は悟る。常供のささげ者が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」



口語訳聖書では、「あなたの道を行きなさい」と二度言われています。生き方上手の一つは、シンプルライフです。御国目指して、ひたすら歩むということです。
神の国も得たい、富も得たいと、二股かけることなく、一つに絞るのです。
使徒パウロも「わたしは、この一時に励む」と命の冠を受けるために、シンプルライフに生きました。
 二つ目は、ユニークライフです。オンリーワンらしく生きることを、造り主は、喜ばれます。横と比べないで、上を見ながら、神にむかって自分らしく生きることが大切です。
 GO your way! この道は、「わたしが道である」と言われた、主を信じる道です。この道しか、神の国に通じる道はありません。この道を行こう!!
下には永遠の腕がある
申命記33:27

昔よりの神は、住む家。
永遠の腕が下に。
あなたの前から敵を追い払い、
『根絶やしにせよ』と命じた。



このところは、神の人モーセの遺言です。120年の人生の勘所が記されています。特に、エジプトからイスラエルの民を救出せよとの召命を受けてからの40年間が、戦いの連続でした。内にも外にも敵がいました。また、厳しい自然界との戦いがありました。それらに勝利する秘訣が、ここで教えられています。一つは、永遠にいます神をよりどころとしなさい。
 二つ目は、常に神はあなたを支える力ある腕となってくださっていることを覚えなさい。ということです。最後は、敵に立ち向かう力を与えてくださるということです。自分の力で戦うのではありません。死に勝利されて復活されたキリストが戦ってくださるのです。我らは、神を信頼して、従いゆくのみです。
親として
創世記25:19~28
 

これはアブラハムの子イサクの歴史である。
アブラハムはイサクを生んだ。イサクが、パダン・アラムのアラム人べトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は」と言った。そして主のみこころを求めに行った。すると主は彼女に仰せられた。
「二つの国があなたの胎内にあり、
二つの国民があなたから分かれ出る。
一つの国民は他の国民より強く、
兄が弟に仕える。」
出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。最初に出てきた子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。
 この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。イサクはエサウを愛していた。それは彼が量の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。



 イサクの家庭が描かれています。イサクは争いを好まず、平和を愛する人でした。もちろん、イサクもリベカも神を信じる夫婦でした。しかし、親として、間違いを犯しました。イサクは、肉が好物で、猟をして獲物を持って帰るエサウをかわいがり、リベカは、自分になついて料理を手伝ってくれるヤコブをかわいがりました。
この偏愛が、この家庭にもめごとをおこし、兄弟で憎みあうものになってき、弟に神の祝福をよこどりされたのを知ったとき、殺意までもつようになりました。その結果、弟は、兄といることが怖くなり、遠く親戚の家に、逃げねばならなくなりました。
 では、我々は「親として」どうしたらよいのか。同じ間違いを犯しやすい者として聖書の言葉を親子関係の土台、原則として、これにそいながら生きる以外にないように思える。親も子も聖書を中心に、自己反省し神に祈りつつ歩むことだと思う。

投げたらあかん
エレミヤ18:1~6

主からエレミヤにあったみことばは、こうである。「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。陶器師は、粘土で製作中のを自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかのに作り替えた。それから、私に次のような主のことばがあった。「イスラエルの家よ。この陶器師のように、私があなたがたにすることができないだろうか。―主の御告げ―見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。



神が陶器師で我々は、その手の中にある粘土である。と言う教えは、イザヤ書に2回、ローマ書に1回記されています。口語訳聖書では、造られていた作品が仕損じたので、他の器につくり直したと書かれています。
 私たちは、神の作品として造られましたが、時と共に、汚れてくる、欠けたり、もれたりしてきます。そんな器になれば、人は、捨ててしまいます。しかし、神は、そうではありません。再び、造り直して下さるというのです。ご自分の自慢の器に。たとえば、ヤコブ(押しのける者)をイスラエル(神の皇太子)に造り直して下さったようにです。ここに、我らの望みがあるのではないでしょうか。失敗しなかった人は一人もいません。罪を犯さなかった人は一人もいません。けれど、主は、再び造り直して完成してくださる。
神の作品
エペソ2:10

私たちは作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。



人は、の手によって造られた作品であると語っています。しかし、多くの人は、作品でない人生を生きている。製品的人生を、おくっています。生き方のものさしは、みんながどうしているかです。少しは、目立ちたいと商品的生き方をしている人もいます。他よりは上でありたいと常にあせりますから、心がやすまりません。製品的人生観は、自由がありません。命の輝きがありません。商品的人生観は、常に不安です。そして、使い物にならなくなると、廃品になります。
 しかし、聖書は、「私たちは、作品だ」というのです。神の手によって造られた神の作品であり、存在自体がオリジナルで高価で尊いというのです。このメッセージを心から受けとめる時、そこに命が輝くのです。
こうすれば魂に安らぎがきます
マタイ11:28~29

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。



人は、重荷を負って生きています。少なくとも、3つの重荷があると思います。

(1)罪の重荷です。過去に犯した罪のゆえに、心がうずきます。平安を奪っています。

(2)死の重荷です。死にたくなくても、人は必ず死んでいかなくてはなりません。死ぬのが怖い、死んだらどうなるのかわからぬから恐れがある。

(3)生きる重荷です。
(イ)人間関係の重荷があります。
(ロ)経済的な重荷があります。
(ハ)病気の重荷があります。

主は、マタイ11:28のように、我々の魂に安らぎをお与えくださいます。
神の愛により一つとなる
ヨハネ 17:20-26(新改訳聖書)

わたしは、ただこの人々のためだけではなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしをされたように彼らをもされたこととを、この世が知るためです。父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせて下さい。あなたがわたしを世の始まる前からしておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしをしてくださったそのが彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。



親の願いは、子の幸せです。そして、兄弟がいるなら、仲良く助けあって暮らしてほしいと言うことだと思います。私たちの造りなるも、私たちがみな幸せになることを願い、兄弟姉妹、仲良く助け合って暮らしてほしいと願っておられるのです。この17章は、最後の晩餐の遺言的メッセージを語られた後、この世に残す弟子たちのことをしたの祈りです。この祈りの中心は、の愛の中にいなさいということと、にあって、いつも一つになりなさい、という教えです。親の子への思いと、の我らへの思いが重なります。我々は、教会総会で、愛します宣言をともに唱和しました。イエス様が私たちを愛してくださったように・・・お互いに親切にしあいます。優しい言葉をかけあいます。仕えあいます。愛し合います。は、我々が一つになるようにお祈りくださいました。
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