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あなたも賢い人になれる
箴言30:24~28
この地上には小さいものが四つある。
しかし、それは知恵者中の知恵者だ。
蟻は力のない種族だが、
夏のうちに食糧を確保する。
岩だぬきは強くない種族だが、
その巣を岩間に設ける。
いなごには王はないが、
みな隊を組んで出て行く。
やもりは手でつかまえることができるが、
王の宮殿にいる。

まずアリに学ぶこと。必ずやって来る冬に備えて夏のうちに食糧を確保している。
 死があるが、キリストを信じて、永遠の命を確保しておこう。

次に、岩ダヌキ。
 弱くても岩間に住んでいるので安心である。
 岩とはキリストをさす。

そして、いなご。
 いなごは、弱い生きもので、子供でも簡単につかまえられる。しかし、イナゴが群れを作り、一致すると、青いものはいっぺんに食べられてしまう。
 団結は力を生み出す。

最後に、やもり。
 やもりの賢さは、宮殿に住みつくことである。
 これを霊的に解釈すると、
 やもりは汚れた生きものである。見た目にも気持ち悪いが、罪人を指す。
 宮殿に住むというのは、王子と同じようにご加護がいただけるということです。
 旧約聖書に登場する、
 ヤコブ(押しのける者)がイスラエル(神の王子)とされたようにです。
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野のゆり
マタイ6:28
なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

 もらったものにより、くださった方の思いを知ることができるように、神が造られた被造物を見る時に、神の愛の深さを知るのではないでしょうか。一輪の花を見て、その美しさ、清らかさに感動しない人はいないと思う。まして、神が人に命を与えられた、その命の尊さを思う時、いかに神が、かけがえのない存在として大切に思って下さっているか、測り知れないほどである。

 親は子供を愛して、自分のできる最上のことをしたいと思うように、まして、善にいます善なる神は、肉親の愛情以上の愛をもって、我々に気配りをして下さるのです。

 野のゆりを見る時、これらのことを思い出したいものである。
心が病んでいる
ルカ10:30~35
イエスは答えて言われた。
「ある人が、エルサレムからエリコヘ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げていった。たまたま、祭司がひとり、その道を下ってきたが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

 体が病んでいる時、健康な体のような力が出ないのと同じように、心が病んでいるから、いばったり、いじけたり、ねたんだり、憎んだりするのです。このところには、心が病んでいる人々の姿が現れている。
 めんどうだ、じゃまくさい、損したくない。あるいは、ありがとう、すみませんが言えない心。これらは、心が病んでいるからです。
この心を、聖書は罪と言っています。
 けれど、この中で、サマリヤ人だけが隣人に本当の愛を尽くしています。このサマリヤ人は、イエス・キリストの型です。
イエス・キリストは我々罪人を救うために来て下さいました。
キリストは十字架の上で死ぬことにより、我々の心の病を治して健康にして下さいました。イザヤ54の4「彼は、私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」
 その愛を受けたものとして、愛に生きる者になりましょう。

体験学習
ルカ1:36~41
ご覧なさい。あなたの親類のエリザベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」 マリヤは言った。「本当に、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリザベツにあいさつした。エリザベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリザベツは聖霊に満たされた。

 体験したくても出来ないもの、体験したくないものがある。しかし、神は確かに生きておられるという実感は、ぜひとも皆が体験すべきすばらしい世界です。
 マリヤは神の言葉を聞いた時、そこから立ち上がって行動した。
 神が全知全能であることを実感できたのは、マリヤが本気で、神の言葉を受け止めて、信じ、行動したからである。

 私たちが、神が生きておられるということが実感できないのは、神の言葉を真剣に聞いていないからであり、本気になって立ち上がって行動しないからであると思う。
 しかし、本気になって神に従って行った時、マリヤのように、言い尽くせない魂の喜びを味わうことでしょう。
人知をはるかに超えた世界
マタイ14:17~21
しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。

 神なしの人間の世界だけでは、逆立ちしても、5+2=7です。
 けれど、そこに全知全能の神である主が加わると、5+2+主=無限 となる。
 この方程式だけでも覚えておくと、人生に希望がわいてきます。
マイ・ホーム
黙示21:1~8
 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下ってくるのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、臆病者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」

 私達の心には、苦しみのない永遠の居場所というものに対する聖いあこがれというものがある。
 死も悲しみも叫びも痛みもない、そんな所に住みたいと強く思う。
 神は、そういうすばらしいホームを天上に備えて下さっていると、聖書に記してある。
 私は、やがてそのマイホームに帰ってゆくことが出来る日を楽しみにしています。
荒野にて
ホセア2:14~15
それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて
荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。
わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、
アコルの谷を望みの門としよう。
彼女が若かった日のように、
彼女がエジプトの国から
上って来たときのように、
彼女はその所で答えよう。

人生には、荒野のようにつらい所を通る時がある。
誰もわかってくれない寂しさ、一人とり残された悲しい荒野の時を経験する。
 しかし、荒野に連れて行ったのは、あなたの造り主である神である。神は、そこであなたを訓練し、砕き、育て、有益な器にされるのだ。
 神は、あなたに災いを与えるためではなく、将来と希望と平安を与えるために荒野に導かれる。
 神は、意味なく、あなたを荒野に連れてゆかれない。神は、アコル(災い)の谷を望みの門として下さるのです。
変わらぬ愛
箴言19:22
人の望むものは、人の変わらぬ愛である。
貧しい人は、まやかしを言う者にまさる。

人の望むものは、変わらない愛である。
人は変わらぬ愛を求めているが・・・・得られず、心深く傷つく。
 人ごとではなく、自分も人を変わらない愛で愛せない。
 人の愛は、限りがあり、条件つきである。
 悲しい事実だ。
 しかし、神の愛は、異質である。不変の愛で私やあなたを愛していると言われている。
 人には、理解しがたいほどのものである。でも、この愛こそ、人の望むものである。
だれでも救われる
ローマ10:13
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
 「キリスト教はシンプルだ!」とある人が言った。その通りである。イエス・キリストの教えを守っていく宗教なら、とうてい私は救われない。
 でも、死んでよみがえられたイエス・キリストと共に生活できるなら、私でも救われる。

 主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。
苦難がもたらす恵み
ヨブ1:1~4
 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。

ヨブ1:20~22
 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。
 「私は裸で母の胎から出て来た。
 また、裸で私はかしこに帰ろう。
 主は与え、主は取られる。
 主の御名はほむべきかな。」
ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。


 人生は思うようにいかないものだが、苦しみには意味がある。品行は正しく、信仰深い人ヨブにも苦しみが来た。なぜだろう。
 神は無意味に苦しみを与えられない。
神はヨブに、物の頼むに足らぬこと、人頼みの当てにならぬこと、自分もあてにならぬことを教えられた。
 それからヨブは、この苦しみを通して、創造主なる神を深く知った。ヨブは苦難を通して、真実の生き方を学んだ。ヨブは幸福な人だ。
あなたも 生まれ変われる
IIコリント5:17
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

古い生活から抜け出したい。けれど、なかなか抜け出せない。変わりたいのだけれど、ちっとも変わらない。自分自身、どうしたら新しい世界で生きられるのだろうかと悩んでいる友よ。
それは、新しい世界のすばらしさがわかれば、古い世界がイヤになる。本物がわかれば、ニセ物はつまらない。
 本物とは真理である。真理は、「私が道であり、真理であり、命です」と言われたイエス・キリスト。イエス・キリストを知るには、聖書を読むことです。教会に行ってメッセージを聴くことです。
 使徒パウロは言っています。
主イエスを知った絶大なる富のゆえに、その他のものはちり、あくたになったと。
 本物を味わおう! 共に!!

確実である
1テモテ1:15

「キリスト・イエスは、罪を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。わたしはその罪人のかしらです。

 この世のことは、時と共に変わり、不確かなことが多い。地位も財産も家族も健康も自分も絶対的とは言えない。だから、不安である。恐れがある。けれど、偽ることのない神が真実なことを伝えてくださっている。

① イエス様は、罪人を救うために来てくださった。
② 信心の鍛錬が万事に益である。(1テモテ4:8~9 ー 注1)
③ 愛なる神のみ手から試練が来るのであり、それは我々の益になる。(IIテモテ2:11~12 - 注2)
④ 主のしもべとして喜んで仕えてゆく人は、決して報いにもれることがない。(テトス3:8 - 注3)

 これらの真実なみ言葉を土台として生きる人は、人生の勝利者となれる。

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人生の転機
ローマ11:18

あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。

 私たちが悩むのは、自分の人生を自分で切り開いてゆかねばならぬと思っているからです。しかし、思うように行かないのが人生ですから、思い煩い、自分を責めて、落ち込んでゆくのではないでしょうか。
 それが、聖書の言う、あなたが根を支えているという生き方をしているからだと教えているのです。そうではなくて、根があなたを支えているのです、と聖書は教えています。だから、大丈夫だといっているのです。
 では、根とは、一体何でしょうか。それは、命の源なる神のことです。わたしの命は、神によって生かされている命であると悟ったとき、人生の転機となり、平安な人生を神と共に過ごせるのだと、聖書は教えているのです。
 「あなたが、根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」

人が幸せになる秘訣
マルコ11:22

イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。
 誰しも幸せになりたいと思っています。その、人の幸せになる秘訣を、主は一言で教えています。「神を信じなさい」です。私たちを幸せにしてくれるのは、天地を作られた神を信じる生活です。では、信仰に生きるとは、どういうことでしょうか。
(1)神をよりどころとして生きるということです。創世記39章~50章のヨセフの生涯を見ると、そのことがよくわかります。
(2)神とのコミュニケーションをもちながら生きるということです。ダビデの生涯から(第二サムエル5:19・23-追記を参照してください)そのことがよくわかります。
(3)出来ない自分から目を離して、出来る神に望みをおいて生きるということです。モーセの生涯から、そのことがよくわかります。(80歳の年寄り、口下手な自分、平凡な羊飼い) こんな人を神は、解放者として用いられた。
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人生という巻物
黙示5:1~5

 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と言っているのを見た。しかし、天にも、地にも、だれひとりその巻物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。巻物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
 御座に座っておられる方の右の手に、巻物が握られていました。神は、3つの巻物を握っておられます。聖書と大宇宙とあなた自身です。黙示録の人生観は「一巻の巻物のようなものである」ということを教えていると思います。人生は、一望のもとに見える平面的なものではなく、予測のつかない不可解な巻物だと思います。
 しかし、はっきりとわかっていることは、全知全能全愛の神の御手に、それが握られているということです。そこに、安心が生まれます。
 二つ目に、はっきりわかっていることは、その巻物は、裏も表も文字が書いてあったということです。これは、逆境も順境もみな神の支配の中にあり、すべてに意味があるのだと教えています。神は、万事を働かせて我々の祝福と変えてくださる方です。信仰とは、この人生の意味を汲み取る力だと思います。

野のゆりを思え
マタイ6:28~30

なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、私はあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、このような花一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

 この「よくわきまえなさい」というところを、「よく考えなさい」とも訳せます。主は、野のゆりを見て何を考えなさいと教えているのでしょうか。
(1)花は、造り主の存在を教えています。
(2)神は、人を喜ばせようと花を造られました。花を見て、神が私たちを愛されていることを覚えましょう。
(3)花は、私たちに信頼の大切さを教えています。
(4)花は、人生の無常を教えています。
(5)花は、私たちにきよい生涯をおくることを教えています。

たくましく生きる力
マルコ4:30~32

 また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」

イエスさまは、私たち一人一人が、神の国の実を結ばせるために、この地上にまかれたからし種のようだと言われています。種は、小さいものです。しかし、やがて大きく成長し、空の鳥が巣を作るまでに成長するのです。種には、たくましく生きる力が与えられています。
 その力は(1) がまんできる力です。まず、下に根を張っていきます。
       (2) がまんし続ける力です。根をはり続け、芽を出し、伸ばし続けます。
       (3) 思いやる力が与えられています。 やがて、実を結び、油や家畜の飼料として用いられる。

神はこんな人を祝福されます

創世記12:7~8

そのころ、主がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからべテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはべテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。


アブラハムは、75歳の時に神のみ声を聞きました。そこから、信仰の父と尊敬される信仰生涯が始まったのです。
 「この地をあなたの子孫に与える」との約束の言葉を聞いた時、アブラハムがイの一番にしたことは、祭壇を築くということでした。神との交わりを一番重んじたからでした。神は、こんな人を祝福されます。次に、天幕を張りました。家庭生活を意味します。それから、社会生活を意味する、井戸を掘りました。この順序が大切です。
 祝福された人生を歩みたいと思っておられる方は、一日の始まりに、イの一番に祭壇を築いて、聖書を読み、祈りをささげてから、生活をすることです。必ず、主が、祝福の中を歩ませてくださいます。
備えあれば憂いなし
へブル9:27

人間には、一度ぬことと後に裁きを受けることが定まっている



初めてこの言葉を読んだ時、私はドキッとした。
修学旅行や野球の試合などがある場合、事前にちゃんと持っていく物の準備をしていた自分であるが、確実にやってくる自分のについて備えが全く出来ていなくて、「自分はんだらどうなるんだろう」とひどくうろたえてしまったことを覚えている。
 しかし、今は、イエス・キリストのお陰で「神の下さる賜物は私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です」と、天国に入れていただける安心がある。
 友よ! への準備は出来ていますか?
失敗からの学習
ヤコブ3:2

私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。


ヤコブは、ことばで失敗をしなかった人は、一人もいないと言っている。言い過ぎてしまったとか、言わなければよかったとか、皮肉なことばをチクリとか、悪口、陰口、オーバーな表現をついついして自慢していたりです。
 言葉だけの失敗に済みません。他に、多くのことでも失敗したり、過ちを犯してしまいます。
 人間として未熟であり、欠けの多い私はよく失敗をする。神を信じるものにふさわしくない思い上がった態度で人を傷つけてしまう。あの表現はまずかった、あの時は心配りが足りなかった、と落ち込むことが多い。
 聖書は失敗について何を言っているのだろうか。
その失敗を自分への戒めとして自己吟味し、反省して学び、必要ならば傷つけた人にあやまり、神の前にその心が整えられ、深められていくことであると教えているように思える。聖書は、「失格者となるな」と書いてあるが、「失敗をするな」とは書いていない。
 私たちの弱さをよくご存じの神は、その失敗を学習して学び、やり直す向上心(上を向く心)を喜ばれると思う。
神との出会い
ローマ1:18~20

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。


私たちは、神と出会えます。どのようにして、神と出会えるのでしょうか。被造物を通して神と出会えます。英知ある創造主の作品が、自然です。生き物です。花を見ても、宇宙を見ても、神のみ手のわざのすばらしさを思います。偶然に出来たとは、とても思えません。
 二つ目は、歴史を通して、神と出会えます。正義の神は、悪を野放しにはされません。必ず、裁かれます。ヨセフの生涯を見てください。歴史を導いておられる神がおられることがわかります。三つ目、神の怒りの中で神と出会います。神の怒りは、キリストの十字架に現わされました。罪人の罪を背負って、罪への裁きを、神の子のイエスさまが受けてくださいました。イエス・キリストを罰することにより、我々は、赦されたのです。
ゆるがない平安
イザヤ54:10

「たとい、は移り、は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない」


「動かざることのごとし」のごとく、不動の代名詞であるが、が動いて移り変わってしまうような天変地異が万が一あったとしても、神の私への愛は変わらないと言うこの言葉に、私は感極まってしまった。自分というものに絶望し、この世に不要な存在だと自己嫌悪に陥っていた私の心に、神のみ声を聞くようで、勇気が湧き上がるのを感じたことでした。聖書のことばは、魂を救う力がある。
失望が希望に変わる特効薬
ルカ18:1~8

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」



主イエス様は、人生の壁にぶつかって、失望しやすい、弱い私たちに、失望しないで、いつでも祈ることが大切です。と教えています。では、どのように、いつでも祈るべきでしょうか。その答えを、この18章で、3つ教えておられます。
(1) あきらめず夜昼祈ると言うことです。18:7(注1)
(2) 砕けた心で素直な祈りをささげると言うことです。18:10~14(注2)
(3) 幼子のように信じ受け入れる祈りをささげるということです。18:15~17(注3)
 このことを覚えて、祈り続けてゆくとき、主は、あなたの上にみわざを行われ、失望から希望を持つものに変えてくださいます。
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人生の支え
マタイ4:4

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」



人生で必要なものは、健康でしょうか。お金でしょうか。生きがいでしょうか。「もののけ姫」が、大ヒットしました。その要因の一つが、「生きていていい」というメッセージが貫かれているからだというのです。
 あなたの人生支えは一体何なのでしょうか。イエスキリストは、一言でズバリ言っています。「神の口から出る一つ一つのことばによる」と。
私たちの確かなよりどころは、聖書を土台として、原則として生きることだと教えています。聖書こそ、我々の魂を真に救う力となります。
 和歌山で労祷学園を開いた、升崎先生は、聖書人生支えとして生涯を貫かれました。どんな時も、まず座して、聖書を開き御旨を聞くのです。
ですから、神の器として、尊く用いられました。我らも、また……。
あなたには どんな力が必要ですか
ネヘミヤ8:10

さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちののために聖別された日である。悲しんではならない。*あなたがたのが喜ばれるからだ。」

(追記を参照のこと)

私たちの人生に、どんなが必要ですか。
(1)罪に勝つが必要ではないでしょうか。罪への誘惑は強いものです。自分で勝つのは、難しい。罪の誘惑に勝利された、イエスにベルトをかけて、罪に勝利させていただきましょう。
(2)いやな人をも愛するが必要ではないでしょうか。
波長が合わない、好きになれない人は、いるものです。しかし、イエスの十字架を見上げる時、聖霊がそんな人をも愛するを与えてくださいます。
(3)失望を希望に変えるが必要ではないでしょうか。
失意の中で、上を仰ぐこと。を喜ぶことが力となり、望みがわく。


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自己変革のススメ
ローマ12:2

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。



 だれしも変わりたいと思っているのではないでしょうか。聖書は、心の一新によって自己変革できると言っています。まず、消極的には、この世と調子を合わせるな、と教えています。この世とベルトをかけないで、神とベルトをかけることが重要です。
 自己変革の第一のススメは、の中を歩み続けるということです。世のとしてこられたキリストと共に暮らすことです。第二のススメは、みことばによって歩み続けるということです。(ヤコブ1:21~25、追記を参照のこと)
第三のススメは、聖霊によって歩み続けるということです。聖霊の働きかけにより、我らは、キリストの似姿まで変えられ続けてゆくのです。これは主の恵みです。
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