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安心して
マルコ5:25~34
 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに合わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのか」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群集があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こったことを知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

 12年もの間、長血(婦人病)をわずらって苦しんでいる女の人が記されています。
 人の苦しみは、それぞれですね。経済的な苦しみもあり、子育ての苦しみもあり、親から虐待される苦しみ、人間関係の苦しみ、心の病、身体の病、運動神経が鈍いがゆえの苦しみ、才能がないがゆえの苦しみ・・・etc.

 ここに登場する人の苦しみは、婦人病というわずらいからの苦しみが、苦しみの始まりでした。
「娘よ。」と呼ばれているところを見ると、未婚の人、若い時期に病にかかったがゆえに、華やかなるべき青春が、灰色の悶々とした胸押しつぶされるような失意の中で過ごすことになったに違いない。

 「自分の持ち物を」と記されているので、すでに両親はこの世にいなくて、残っている財産を使って、この苦しみから解放してもらいたいと、お医者さんにすがっていたようですね。

 苦しいとき、神仏に祈願します。こちらの神のほうが霊験あらたかだと聞くと、何百万をつんでも祈祷をしてもらう。
名前が悪いのではないかと、名前を変える。
この女の人は、こんな自分を救ってくれるのは医者しかいないと、医者に頼り、良くならないので転々と医者を変えていったようですが、自分の意に反して、ますます悪くなる一方であったようです。それでも、わらをもつかむ思いで、財産を食いつぶしながら、12年間も苦しみと戦い続けましたが、もう一銭もなくなってしまいました。まさに、詮方尽きてしまって、もう自分には死ぬことしか道がない、というような絶望の淵に立っていたのですね。
その、命が尽きる最後のときに、イエスさまのことを耳にしたのです。

 これは、偶然ではないのですね。
天の父なる神は、この女の人を心に留めておられた。

1ヨハネ4:10
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
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主を待ち望め
使徒1:3~14

 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。


 生きていく中で人は色々なことで失敗をしたり、信じていた人から裏切られたりしたりして、気がふさぐことが多い。そういう繰り返しの中で、主を待ち望むことこそ新しく力を得る秘訣である。

 天からの力を受け、愛と確信に満ちて生きるには、

1)聖書の言葉を信じて、得るまで待ち望む信仰

2) 神様との関係において、崩れている所を修復する。
祈り、聖書を読む、教会生活、伝道、捧げること。
教会成長の不振、伝道の不振を嘆くより祈りの枯渇がすべての力不足の原因である。

 すべて、権力によらず、能力によらず、我霊によると言われた聖霊の力です。

《ちょっと一言》
詩篇16:6

測り綱は、私の好む所に落ちた。
まことに、私へのすばらしいゆずりの地だ。

 あの感動して止まない絵と詩を書いている星野富弘さんは、首から下は動かない。その人が、「体が動かないということは、イエス様を深く見つめることができる絶好のコンディションだと思っています」と言っている。 ここに、仏教のようにあきらめの運命論でなく、実に神の栄光の為に生かされている確信と喜びに満ちた人生の勝利者がいる。
み心をなしたまえ
ルカ1:26~38

ところで、その六ヶ月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、入ってくると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。御覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。御覧なさい。あなたの親類のエリザベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。


 わたしたちの祈りのほとんどが、私の願いを聞いてください、である。そのような祈りも良いのだが、しかし、私の願い通りになることより、み心がなるようにとの祈りをもって生涯を貫きたいものです
 み心がなると言うことは、辛いことがあると思うが、神の栄光のために生きる我々にとって、それがの輝きだと思う。キリストがを捨てることによって我々は永遠のを得た。それならば、我々も犠牲を払うことを覚悟したい。
 
 マリヤがみ心を受け入れる時、3つのことを失うことを覚悟した。

(1)結婚という幸福を失う。

(2)不倫の女と言われ名誉を失う。

(3)を失う。

 けれど神は、責任をもってマリヤを守られ、救い主の母としての名誉、幸福な結婚、祝福された生涯を与えられました。

ルカ1:45

主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。

《ちょっと一言》アモス4:12

あなたの神に会う備えをせよ。

 我々は何時かこの世を去る時が必ずある。その時に神の前にたたされて、この世の言動の公平な審判を受けることが定まっている。その時があるにもかかわらず、我々はともするとこの世と調子を合わせて、この世がすべてであるかのように生活している。慈悲深い神様だから許してくださるとたかをくくっていると、後で手痛い刈り取りをすることになると思う。
主共にいませば
創世記39:2

主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

旅は道連れ世は情けと申しますが、我々の人生の旅にも必ず道連れがいます。欲と二人づれと言う言葉がありますが、自我と道連れであったり、金大好きと道連れであったり、肉欲、快楽主義と道連れであったりして、「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生む」の聖書の言葉どおり、自分自身で滅びを刈り取っている人々が多い。
 その中で、このヨセフは、いつも主と共に生きたので、実に、幸運な人として描かれている。幾度も逆境の中に置かれたけれど、その置かれたところで実に美しく清らかに自分の花を咲かせている。真の自由人として、真実な生涯であった。
 自分勝手な生き方をして悪い影響を与える生き方もあるが、そんな無駄な空しい人生を選ばないで、主と共に歩いて、いつまでも人々の心に残る真実な人生を、お互い過ごせるように努めましょう。

《ちょっと一言》
マタイ1O:29

雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

 この地球上に起こるすべてのことは、愛なる神の慈しみと正しさの範囲の中にあるとするならば、悪意に満ちた言動も中傷も裏切りにも、いらだつことなく「裁きは主のみ手にあり」とののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方にすべてをまかせておられました主のように、我々も悪にも善をもってむくいる者となれることでしょう。
光が牢を照らした
使徒12:1~7

そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過ぎ越しの祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。こうし てペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。


 わたしたちの人生に、思いもかけずむりやり牢獄の中に押し込められたような苦悩を経験するようなことがある。重い鎖に手足はつながれてどうしようもなく気がふさぐ時がある。
 そういう、暗闇に座するうめきにあっている我々に神の光がその牢を照らしたという、力強い解放のメッセージです。

1)神がそこに置かれた意味があるということを知る。

2)我々の生きる目的は神の栄光の為。

3) あきらめない信仰を持つこと。

神の暖かい光を感じたら、直ぐ立ち上がって、その光に従っていくことが大事です。その時我々は神の現実的助けを経験できるでしょう。
〈ちょっと一言)
イザヤ43:4

私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。


上原姉が完璧なるクリスチャンというイメージに圧迫されて挫折していた。その時、上の言葉が支えとなり、最低の人間だけど、この私の存在を喜んで下さっている神が居られることを知って、不完全だからこそ神の愛が必要なのだと肩を張らないで、ありのままクリスチャンとして生きておられるその姿を、その証を聞き、私も深くうなずいたことでした。
戸を閉めて
マタイ7:7~11

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求めるものは受け、捜すものは見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子供には良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

 イエス様は祈りというものを非常に大切にされ、我々にも、絶えず祈りなさいと勧められた。
 祈りの中で重要なことは、

1)聖書の言葉の語りかけを聞くことです。
 必ず神は聖書を通して話って下さいます。「使徒の働き」を読みますと、ベレヤの人々は熱心に聖書を調べたので、確かな信仰者が大勢いたようです。

2)自分の欲得を第一にしてゆく生活から離れて、神の国と神のみ心を第一に求めてゆく生活を心掛けてゆく。

 そういう中での密室の祈りには力がある。

(ちょっと一言)

第ニテモテ4:2

みことぱをのべ伝えなさい。

伝道者の書11:1

あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になってあなたはそれをみいだそう。

10年ぷりにある夫人にお会いした。会った途端、「お陰様で信仰を持つことができました」と挨拶された。思い返せば、10年前ELI伝道で聖書を語った人であった。くすしき主のみわざを思った。
主が喜んでくださるもの
(1) 神を信頼することを喜んでくださる。
ヘブル11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

マタイ8:23~27
 イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。

マルコ4:35~41
 さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで弟子たちは、群集をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

ルカ8:22~25
 そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も収まり、なぎになった。イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

(2) 神は喜んで与える人を愛してくださいます。
IIコリント9:6~15
 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。
 その義は永遠にとどまる。」
と書いてあるとおりです。蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられる絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。

 人は受けるよりも、与えるほうが幸いだとも主は言われています。

(3) 主の御声に従うことを喜ばれます。
1サムエル15:22
するとサムエルは言った。
「主は主の御声に聞き従うことほどに、
全焼のいけにえや、その他のいけにえを
喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

聖書のことばに従う生活を主は喜んでくださり、その人の人生を大いなる祝福をもってお導きくださる。
聖書に生きる
マタイ4:1~11
 

さて、イエスは悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みるものが近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。


 我々はこの世に存在する限り悪魔の誘惑を受けます。望に負けて罪を犯すと、神からどんどん離れて不信仰になり、自らを滅ぼすことになります。
 イエス様は、悪魔の誘惑を受けた時、ことごとく旧約聖書のみ言葉を持って勝利されました。
 さて、悪魔はどんな手を持って我々を誘惑するのか。
1) 目の、肉の、所有
2) 神を試す態度
3) 神より他に愛する対象を移す。

 聖書にかたく立って生きるより勝利の道はなし。
キリストにある私の生き方
第一コリント4章
 

こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。
さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王さまになれたでしょうに。私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見世物になったのです。私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。
 私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。私があなたがたのところへ行くことはあるまいと、思い上がっている人たちがいます。しかし、主のみこころであれば、すぐにもあなたがたのところへ行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく、力を見せてもらいましょう。神の国はことばにはなく、力にあるのです。あなたがたはどちらを望むのですか。私はあなたがたのところへむちを持って行きましょうか。それとも、愛と優しい心で行きましょうか。

 この箇所でイエス様の歩まれた道を、ひたすら歩もうとしているパウロの生き方を学び、我々もキリスト信者としていかに生きるべきかを教えられたい。
1)主が来られる日が我々の信仰の焦点。(5節ー注1)

ルカ1 2 :4 2 ~47

主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とはいったいだれでしょう。主人が帰ってきたときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに合わせるに違いありません。主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。


2)天国の市民として生きる。(9節ー注2)

ヘブル1 1: 38

――この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした――荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。

3)神の国の力によって生きる。(20節ー注3)
キリスト者の道は厳しいものだけれど、神はそれを負える力を下さる。

第二テモテ4:5~8

しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。


この道を行こう。
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サイン
詩篇123

あなたに向かって、私は目を上げます。
天の御座に着いておられる方よ。
ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、
女奴隷の手が女主人の手に向けられているように、
私たちの目は私たちの神、主に向けられています。
主が私たちをあわれまれるまで。

私たちをあわれんでください。主よ。
私たちをあわれんでください。
私たちはさげすみで、もういっぱいです。
私たちのたましいは、
安逸をむさぼる者たちのあざけりと、
高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。


聖書の中で、我々教会という天国を目指すチームメイトに監督である主イエス様がサインを出されています。
1) 誰でも、私についてきたいと思うなら、日々、自分を捨てなさいという自己犠牲の生活です。

ルカ9:23

イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

2) 辛抱強く待ちなさいというサイン
使徒16:6~7

それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤ二に面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。



人の立てた計画がとどめられる時がある。その時、神を信じて待ち望むこと。
3) 一致してほしいというサイン。(ヨハネ14~17)
互いに愛し合い、互いに許し合い、互いに祈り合うことにより、教会は、勝利する。

《ちょっと一言》
ヨハネ9:4

わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。

日めくりをめくりながら、「私は、何度この動作を操り返してきたことだろうか、…今日も生かされている。こんな者をも神は必要として、期待して下さっているのだ。」と思い返す。その期待に少しでも答えて生きたい。
昇天のイエス
1ペテロ3:22
キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。

 カルバリ山の十字架の上で、人類の救いのみわざを完成されたイエス・キリストは、3日目に甦り、40日間、多くの弟子たちに現れ、ついにはオリブ山から天に上られました。
 聖書には、「主は天にあげられ、神の右に座られた」と記されています。キリスト教会も初期の頃から使徒信条の中で、「主は・・・天に昇り、父なる全能の神の右に座し給えリ」と告白してきました。もちろんこれは聖書に基づいた信仰告白です。「天」とは高い霊の世界を示し、「右」とは権威、権能を象徴する言葉です。神のもとから来て、救いのみわざを完成し、神のみもとに再び帰られたキリストは今、神の右にいて、私たちのために、大切な3つの働きをしておられます。

(1) 大祭司としての働きです。(ヘブル7:24~26-注1、ヘブル4:14~16-注2)
私たちは毎日、多くの点で失敗し、罪を犯す者です。けれど、主がとりなしをしていてくださるのです。

(2) 王としての働きです。
歴史の支配者(権威の王国)
教会の主(恩寵の王国)
天上の主(栄光の王国)

(3) 救いの君としての働きです。(ヨハネ14章~)
私たちのために場所を備え、また、迎えに来てくださる。
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あなたがたは世の光である
マタイ5:14
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

 光は、キリストです。月が太陽の光を受けて輝いているように、私たちは、世の光であるといわれているキリストの光を受けて輝いているものです。

 イエス・キリストは言われました。
① 光をの下に隠さないように。(ルカ8:16-注1)
とは肉体を指します。肉欲のもとにキリストの光を隠さないように。

② 寝台の下に置かないように。(マルコ4:21ー注2)
寝台とは怠惰や快楽を指すので、快楽をむさぼる怠惰のために、キリストの光を隠さないように。

③ 光をの下に置かないように。(マタイ5:15-注3)
は商売を表わします。キリストの光を商取引のために隠すことがないように。

 昔、灯台の光に、航海中の船にいる多くの人の命がかかっていたように、わたしたちのかかげる光には、暗黒の人生の海を航海する多くの人々の生命がかかっているのです。救い主イエス・キリストを伝えましょう。
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朝の15分があなたを変える
出エジプト34:2~3
朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたといっしょに登ってはならない。また、だれも、山のどこにも姿を見せてはならない。また、羊や牛であっても、その山のふもとで草を食べていてはならない。」

これは、イスラエル民族の大指導者であったモーセが、シナイという荒野の中にそびえたっているシナイ山のふもとに、民と共にとどまっていたとき、神がモーセに語りかけた御言葉なのです。
 
 神はモーセに、「一人で山に登ってきなさい。誰もお前と共に登ってはならない」と命じられました。そして、命じられたとおりにするモーセ。神は、御顔を向けられ、御声をかけられて話をされている(5節:注1)。その結果、主のみ旨がわかり、そして、モーセの顔は神の光を放っていた。人々は、神と会ったのだなあーと知り、神を畏れ、モーセを尊敬し、モーセに託された神の言葉を真剣に聞いたのです(30節:注2)

 ここに、自分自身を魅力的な者に変える秘訣があると思います。榎本保郎牧師は、失敗をよくし、イライラし、すぐ人を裁いてしまう自分自身がいやになり、本気で自分を変えたいと思いました。そんな折、「朝の15分があなたを変える」という信仰良書と出会い、まず5分間聖書を読み、次に5分間霊的書物を読み、最後の5分は祈りました。

 モーセに神は、朝のうちに山頂に登って来なさい、と命令されています。

① 早朝に神の前に出ることが、神の祝福を受けるポイントです。

② モーセは、山の頂で神の前に立つように命じられました。
モーセは神と語るために、手放せない色々な問題からどうしても一時手を引いて、この恵みの山の頂まで登らねばなりませんでした。山の頂まで行くには、時間がかかります。 やはり、日常生活が始まるまでに、朝早めに起きて、神のみ声を聞くために山に登っていかなくてはなりません。

③ モーセは朝までに備えをして、山に登るように命じられました。
神の前に出るには準備が必要だということです。
早起きするためには、早く休むことです。優先順位を決めておくことが大事です。神の国とその義を第一に求めましょう。
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永遠への分水嶺
マルコ4:1~20

イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群集がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の船に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。種蒔く人は、みことばを蒔くのです。みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまいます。もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」


イエスを救い主と信じるか信じないか、その決断によって、我々の永遠を過ごす場所が決定する。
 まさに、イエスキリストに対する態度が天国か地獄かを決める分水嶺である。

ヨハネ3:36

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

《ちょっと一言》
ヨハネ20:28

トマスは答えてイエスに言った。私の主。私の神。

尼僧からクリスチャンになった藤井圭子先生は、現在も小児科医師として仕事をしながら伝道なさっている。その先生が、クリスチャンは、天地の造り主を私の主と呼ぶが、仏教徒は、私の仏様は・・・とは言わない。ここに確かな対象となっているものとあやふやな対象との違いがある、と話して下さった。体験談であるので力強い。
愛に富む者
第ニコリント8:9

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。


 天と地の創造者なる神が人を愛されたところからこの世界の歴史が始まり、神が世を愛されて、そのひとりごを賜わったところから、キリスト教が始まった。
 神は愛です。言葉や口先だけで愛することは偽りで、真実な行ないで愛を実践して、その愛が本物であることが証明されるのです。
 次に、愛は相手に求めるものではない、犠牲を強いるものでもなく、交換条件的なものでもありません。
 本当の愛は、相手がどのような者にもかかわらず、極みまで愛するものです。
 神は我々を愛して命を捨てて下さいました。

1ヨハネ15:12

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

起死回生
マルコ5:25~34

ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに合わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのか」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群集があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こったことを知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」


12年の長きにわたって婦人病に悩まされていた人とイエス様との出会いを通して3つのことを学ぶ。

① 多くの人が不運な境遇を背おわされて苦悩している。
この人は、この病気のゆえに結婚もできず、財産をなくし、差別を受けて、日々、病魔と闘い、孤独と闘い疲れ果てていた。

② しかし、この病あればこそ、後に永続する幸運をつかんだ。
輝いて生きた人の多くは、「苦しみにあったことは私にとって良かった、それによって神のご愛を知ったから」と言う。

③ 私はクリスチャンですと公言する人。
神から恵みを受けても、それを明言しないで、神から離れて、元の群衆にもどってしまう。しかし、この娘さんは、イエスの前に出て受けた恵みを、いいかげんな評価をする群衆の前で証した。それゆえに、25節のように過去形で言い表されるようになったのです。

《ちょっと一言》
ヤコブ2:14

「自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことがでさるでしょうか」

 神を信じていると言っても、生活化した信仰でないなら、信仰というものはないも同然である。祈りもせず、聖書も読まず、親切でもなく、悪口ばかり言っているとしたら、本気で神を信じているとは言えないと思う。
人の命は神の手の中に
ルカ12:13~21
 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人の命は財産にあるのではないからです。」それから人々にたとえを話された。
「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 こんな話があります。小学生の息子が遊んでばかりいて少しも勉強をしないことに業を煮やした母親が、「遊んでばかりいないで、少しは勉強しなさい」と言いました。
息子「なぜ勉強しなくてはいけないの」 
母親「いい高校に入れるから」「いい大学に入れるから」「一流の会社に入れるから」「お金がたくさんもらえて、楽な生活ができるから」
息子は、「お母さん、楽な生活だったら、今しているから、僕はこれでいいよ」と言ったということです。
 人の命は財産にあるのではない、ということは真理ですね。
 
 もう一つの話を。アメリカ大陸がまだインディアンの土地であった頃、広大な土地を日の出から日の入りまで囲んだ人のものになる、と聞いたある男の人が、できるだけ大きな土地を手に入れようと、日の出から走って、日の入りまで、大きな土地を囲んで印をつけ、ゴールインしました。「やった!」 振り返って、「この広大な土地は俺のものだ」と叫んだとたん、心臓が止まり、翌朝、その人の身長ぐらいのこんもりとした土の上に木の墓が立っていて、「名も知らぬ人の墓」と刻まれていました。
 
 人はたとい全世界を得ても、命(まことの命)を損じたら何の得になるか。
 まことの命というのは、神との交わりをしている命のことで、聖書のいう死というのは、肉体の死とともに、神との交わりが断たれている魂を死といいます。
 私たちの命は、天地万物を造られた神によって造られた命、与えられた命なのです。
 聖アウグスティヌスは、「人間は神によって造られたので、神に帰る以外、心に本当の平安はやどらない」と言っています。
 パスカルも、「人の心には空洞がある。それは、神しか満たせない空洞である」と。
 
 イエス・キリストは、このまことの神に帰る人間との架け橋になってくださったのです。

ヨハネ14:6
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
神の恵みから落ちる者がないように
第一コリント5
 

あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしているものがいるとのことです。それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行いをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。あなた方が集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過ぎ越しの子羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。
 私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事もしてはいけない、ということです。外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。


 神様の愛を知って、神様を信じた者も、だんだん神より快楽を愛するようになり、自分中心になってくると、少しずつ神から離れた生活をし、神の恵みから落ちてしまい、神を信じない者と同じ裁きを受けねばならぬはめになる。
 
 ですから、滅びに到らぬために、
① 罪と闘い、聖霊の力によって信仰の勝利を得よ。
それは、世俗との闘い、欲との闘い、悪魔との闘いである。

② 古いパン種を取り除く闘いである。
そのパン種とは、パリサイ人の偽善、サドカイ人の物質主義、ヘロデの肉欲主義の生き方である。

ローマ13

夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。


 《ちょっと一言》
詩篇131:2

我が魂は乳離れしたみどりごのように安らかです。

             
 ある本に、乳離れしたみどりごと言うのは、母親の優しい愛の養い、はぐくみを経験してきた者という意味があると書いてあった。我々の信仰が停滞したり、破船したりするのは、過去の自分の神の大いなるはぐくみとか助けられたことを忘れてしまうところからくることも多いと思う。
ゴール目指して
ピリピ3:13~21

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。


天国を目指してこの世を生活している者が、キリスト者であるが、ここで、パウロは、勝利の栄冠を得る為に走る競技者として、クリスチャンたちの心構えを教えている
① 先ず、参加すること。
見物人には冠は与えられない。

② 競技する者としてのふさわしい服装をすること。
ふさわしくないスタイルは、ニ心。虚飾の心。

③ 完走する為のスタミナ、基本となる日頃の訓練をしっかりと身に付けておく。

第一テサロニケ5:16

いつも喜んでいなさい。


 そして、競技している時に大事な心構え。
後ろのものを忘れて振り返らないこと。過去の失敗に臆して現在をおろそかにしたり、過去の栄光に浸って現在をおろそかにする。ロトの妻を思え。

《ちょっと一言》
ガラテヤ5:18

もしあなたが聖霊に導かれるなら律法の下にはいません。

律法の立場から自分がどんな人間かということを眺めると絶望であるが、神の一方的な恵みであるカルバリの十字架の主イエスと復活の主がどんなお方であるかを思うと希望がありしかも安全である。
神が下さる平安
ピリピ4:7
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

人の心には何よりも平安が必要です。
どんな小さな不正やごまかしでも、人の心は責められます。
苦難にあえば、悩みます。
そして、死に直面すれば怖れるのです。
財産も地位も権力も、人の心に本当の平安を与えることはできません。

(1) この平安は、まず第一に、神との平和から生まれます。
アメリカの元プロ野球の選手で、ビリー・サンデーという人がいたそうです。彼はある時、銀行で小切手を現金に換えてもらっていました。5ドル多くもらったのですが、黙ってネコババしてしまいました。それがあとあとまで彼の良心を苦しめたのです。
そこで悔い改め、その盗みの罪を神に告白し、赦しを求めました。
そして、神の平安を得ました。それから、こんなすばらい人生をもたらしてくれたイエス・キリストを宣べ伝えたいと、プロ野球選手をやめ、伝道師となり、神に大いに用いられ、多くの人々をイエス・キリストに導いたのです。

(2) この神の平安は、どんな試練や苦難にあっても、覆されることのない平安です。
(マルコの福音書4章を参照のこと)
私たちの人生という船にキリストをお迎えし、その舵をキリストに任せておくなら、どんな人生の嵐が襲ってきても、平安に乗り切ることができるのです。

(3) この平安は永続的な平安です。
(未来形のギリシャ語)
たとい死が近づいてきても、神の平安をいただいている人は、穏やかに、「死も天国への門」と笑顔で、「じゃあまたね!」と過ごすことができるでしょう。
なぜなら、死に勝利され、よみがえられた主から与えられる平安ですから、確かなものです。
あなたがその人です
IIサムエル12:1~7
 主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに北人自分のところに来た人のために調理しました。」すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」
 ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。

ダビデは、このとき、姦淫罪、偽証罪、殺人罪という大きな罪を犯していた。にもかかわらず、羊一匹を盗んだ人に死刑を宣告している。

 実に、自分には甘く、人には厳しい裁きである。

私なども、罪人であるという認識はあるが、罪深い者であるという意識が希薄なので、常に、己を正しい位置に置き、相手を責めている。

 しかし、人を裁く私に向かって、神の指が「あなたがその人です」と自分自身の内にある汚い罪の数々を指摘する。

 ダビデは、その時、砕けた心で、「私は主に対して罪を犯しました」と悔い改めました。

その時、主もまたその罪をゆるされました。
私達も、悔い改めがおろそかになり、自己不在になってくると、自分を正しいとし、人を責める傲慢な者になるので、神の前の自分の心の姿を吟味しながら、謙虚に歩みたいものです。
中心は愛
1コリント7:17
 ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。

1コリント7:24
兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。

教会ではどのようなことが教えられているのでしょうか。
神の御前にいなさい、というのはどういうことを言っているのでしょうか。
それは、愛が中心ですよ、一番大事なものですよ、と教えているのです。
聖書の中心は、「神は愛です」、「神はあなたを愛されています」、「愛されたものとして、人を愛してゆきなさい」と勧めているのです。

なんでもそうですが、中心から外れてくると間違ってくるものです。たとえば、医者の中心は命を生かすということですね。なのに、経営が中心になってくると、医は仁術でなく、命をむしばむ算術へと成り下がるのです。

もちろん、牧師である自分も同じです。

このコリント教会に集まる人々が、聖書の中心である愛することから外れて、ある人々は快楽主義に陥り、ある人々は禁欲主義に陥って、混乱と争いの入り混じった集団になりつつあったのを、キリストの使徒パウロが叱責し、警告を与えました。
 どのようなことを奨励したのでしょうか。
教会には、色々な立場の違い、環境の違う人々が集まっていましたが、
(1) 召された(救われた)時の状態で、神と人とを愛する生活をしてゆきなさい。

(2) 再臨のとき、世の終末の間近いことを意識しながら、かといって、浮き足立つことなく、身近なものを真に愛しながら、秩序ある生活を送って、ひたすら主に仕えてゆきなさい。(1コリント7:29 「時は縮まっています」)

ピリピ4:4~7
 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝を持ってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

心の深層
詩篇51:3
まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。
私の罪は、いつも私の目の前にあります。

過去を振り返ると取り返しのつかないことを何度もしてきた自分の罪の大きさに気づく。いかに寛容でなかったか。謙遜でなかったか。欲深く、感情的で、思慮が浅く、愛がないものであったかと後悔することしきりである。
 一度、吐いた言葉は戻らない。一度、傷つけた心の傷は残る。やり直しのきかない痛みを感じる。
罪の特質は、自分では気がつかないところにあると思うが、心の深層には、己を正しいとする心から出ていると思う。
 ひょっとしたら、自分の方が間違っているのではないか!とそういう罪人意識が必要ではないかと自分は感じている。
愛こそ
1コリント8:1
知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。

このところは、知識と愛との比較を通して、我々の生き方を教えている。学ぶということが己をふくれあがらせるような、間違った知り方があり、その高ぶりが自分と他者を滅ぼすのです、と注意されています。
 箴言16:18
高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。

しかし、正しい知り方は、優しさを学んでゆく知識であると思う。

知っている、わかっている、といばる知識の豊かさは不要です。
むしろ、得た知識を他者のために役立てる愛こそ尊いと思います。
優しさと手
エペソ4:32
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

以前の自分は優しい人間の方だとうぬぼれていたが、聖書の言う、キリストの優しさを知るにつれて、自分はなんと冷たい人間だろうと思うようになった。
 キリストの優しさとは、ご自分を敵視する人々の身代わりとして手に傷を負う優しさであるからです。
それが本当の、本物の愛だとわかるのだが・・・わかっても未だに優しい心になれないのは、なぜだろう?
真剣に生きていないから? おそらく、自分の罪深さにまだまだ気がついていないからであると思う。
 自分の手には傷がない、そのことを恥ずかしく思う。
「人には優しく、自分には厳しく」をモットーに
1コリント9:27
自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。

自分に甘い人というのは、まだ大人になりきっておらず、自分のしたいことが先で、しかも、相手が言うべき言葉を自分が言っている。例えば、「ついでにしとって」とかである。
 しかし、相手の立場に立って自分のすべきことができるのは、成熟した心の持ち主である。
 「自分がしたいことは、先」は、甘い人。
 「自分がすべきことが先」は、厳しい人である。
すぐ自分をゆるし、すぐ楽な方、得な方に心が傾き出したら要注意である。そういう自分の甘さが自らに滅びを招く種である。
発想の転換
マタイ5:41
あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。

私たちは、指図されたり、強制されたりすることはイヤで反発したくなる。そこで、争ったり、言い合いになったりする。
けれど、高飛車な上役には逆らえない。イヤイヤするので、ストレスがたまる。

嫁姑の間でも、摩擦が四六時中起こる。
夫と妻との間でも、あるだろう。

そんなきつ~い人にどう対処すればよいのか?
イエス・キリストは上の言葉(マタイ5の41)を教えている。

やらされているという意識がしんどさを生み、手を抜いてやれという怠慢さを生む。
そこで、発想の転換をしてみよう!

自分の為にさせてもらっているのだという思いに受けとめてゆくと、自由人となる。
こんな人はどんな苦労にも命令口調にもへこたれなく、創造的に人生を生きてゆける人だと思う。
チャレンジ!! チャレンジ!!
主が約束された天国
ヘブル10:19~25
 19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
21 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
24 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようでありませんか。

 イエス・キリストがこの世に来られた目的は、ご自分を信じる者が永遠の命を持つことでありました。その冠を失って滅びに行かないために心がけること。

(1) 真心から神に近づこう。(22節)
    聖書をよく読んで聴従すること。

(2) 信仰告白を保ち続けること。(23節)
    どんな時でも、イエスを主と告白した生活をすること。

(3) 愛と善行に励むこと。 (24節)
    神が惜しむことなくそのひとり子を賜った愛の広さ深さを覚えながら、感動して生きること。

(4) 集会を忠実に守ること。(25節)
    主の名によって集まり、たとえ少人数でも、そこで主を賛美し、祈り、聖書を読むこと。
 
 これらを忠実に守っていくと、天国はあなたのものです。
深い人
ルカ1:29
しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

ルカ2:19
しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。

ルカ2:51
それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。

この3つの聖書の言葉は、救い主の母に選ばれたマリヤの特徴を言い表わしているように思える。考えるだけでなく、考え込んでいるし、心に納めて思うだけでなく、思い巡らしているし、あんなことがあったなと軽く受けているのではなく、心にしっかりと刻む、留めたのです。マリヤの信仰の深さ、品性の深さ、思慮深さはこの記事に表わされているように思う。

私も聖書を心に納めて神のみ思いはいかにと思い巡らしたいと強く思ったことです。
有難い事
ヘブル12:24
新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。

 人は、弱く、罪深い者ですから、いくどとなく罪を犯してしまいます。意識しながらも、偽りを言うし、心の中で、裁いていたりねたんでいたり。けれども、有難い事に、私たちの「過ぎ越しの子羊なるキリスト」がほふられてくださいました。その血が我らをきよめ続けていてくださいます。

ヘブル12:24
to Jesus the mediator of a new covenant, and to the sprinkled blood that speaks a better word than the blood of Abel.

キリストの十字架で流された血が、ものを言っていると現在形で書いてあります。我らの罪を、注がれ続けている血が、清め続けてくださり、「この人の罪の罰は、私が代わりに受けました」と語り続けてくださっている。
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