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祝福の道
ルカ19:1~2
 

それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。


 ザアカイは、財産家でありましたが孤独であり、魂は、喜びもなく、平安もない空しい半生でした。
 しかし、イエス様とお会いした時、彼の心の中に革命が起こりました。救いを受けた彼の心は、実に喜びに溢れ、貧しい人々、困っている人々を顧みる親切な思いに満ち、財産の半分を与え、だまし取った人々には、四倍にして返しました。こういう祝福された人生に至る彼の心の道程は、求道の心、告白の心、そして償いの心があったからだと思います。

《ちょっと一言》

ヤコブ3:2 

私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もしことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。

 過ぎるということについて……
 かまいすぎる。ほったらかしすぎる。つよ過ぎる。言い過ぎる・… 
 このように度を越している時に使われている。もちろん、一人一人その量りには長短はあるけれど、「~過ぎる」と言われた時は、謙虚に反省したほうが良さそうだ。人間どこまでいっても、これで良いという完成された人はいないからだ。
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イサク
創世記21:3
アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。

 イサクというのは、「笑い」という意味。神を信じる所に笑いが生まれ、祈りが生まれるのです。そして、イサクの特徴は、日々、自分を捨てて、人の幸福を願った、平和を作り出す人、ということでした。そして、彼の生きる姿勢は、常に神を第一にし、神と交わり、次に家庭を大切にし、そして、仕事を大切にしました。そこに神の祝福が豊かに注がれたのだと思います。
 けれど、晩年、食欲という欲に負けて、家庭不和の原因を作りました。気をつけなければならないのは、ことごとく順調に事が回っているときです。

(ちょっと一言)
箴言14:14
心の堕落している者は自分の道に甘んじる。
 人は、自分が一番かわいいと思うものであるが、「真に自分がかわいいということは、自分の罪を憎むということである」と、ある牧師が言われていた。
 けれど、依然変わらず、自分に甘く、人に厳しく自己中心なのは、自分を大目に見てしまう甘さを許容しているからです。それほど、自分が堕落している心の持ち主であることに気がついていないからだと、自分を見て思います。
 聖書により、何とか良心を研ぎ澄ましたいものです。
平和をつくる者
マタイ5:9
 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

 人と人とがいがみあう、争いあう、この暗い時代において、求められている人材は、平和を作り出す人です。平和を作り出す人となるために、まず、自らが平和な心を持っていなければなりません。ですから、

(1)神との平和を持たなければなりません。イエスの十字架の贖いの死により、神と和解できました。

(2)平和を保つ努力をしていくことが大切です。

ローマ12:18
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

私たちは、争わないで、悪に善を図ることができるのか。そのキーワードは、「正しく裁かれる方にお任せする」ことです。主に任せて、平和をキープするのです。主が、解決してくださいます。

(3)平和を追い求め続けてゆくことです。

第一ペテロ3:11
悪から遠ざかって善を行い、
平和を求めてこれを追い求めよ。

旧約に登場するイサクの生涯に見られます。奪われても、意地悪されても、争わず、譲ってゆきました。そんなイサクを神は祝福されました。
十字架
 主の十字架は、あなたの罪を全部許したよという場所である。罪から来る報酬は死である。しかし神の下さる賜物はわたしたちの主イエスキリストにある永遠の命です。この十字架の主に現わされた神の愛を信じることからスタートし、一日一日これを見つめながら生き、ゴールもここで終わる。
 自分が十字架で死んだという経験をしなくては我が内にキリストが生きるという、霊的に深い奥義がわからない。
 
 十字架によってこの世に死ぬ場所
 十字架は自我が死ぬ場所  

ガラテヤ2:20

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。


(ちょっと一言)
 「報いをのぞまで人に与えよ、こは主のかしこきみ旨ならずや」という賛美歌があるが、しかし人という者は、常に計算をしていて、得になることなら、与えたり、世話したり、助けたりしていることが多い。しかし、我々はそんな打算でするのでなく、純粋に人からの報いを望まないで、与えたいですね。
 その時、主があなたにお報い下さるでしょう。
引き裂かれる思いの中で
ヨハネ19:25~27

兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っているする弟子とを見て、母に、「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。


 十字架刑の苦しみの中で、主イエスキリスト様は、人々に許し優しさを与えられました.我々は、辛い時、悲しい時、人の慰めを求め、力づけられることを求めますが、しかし、期待を裏切られることが多いと思います.そんな時冷たい人を裁いてしまいますが、立場が反対の場合、我々もやはり真に人の心の哀しみを癒やしきれぬ自己があると思います。
 聖書に書いてあるとおり、「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを許して下さったように互いに許し合いなさい。」ですね。
 理解されることより理解することを求め
 されることよりすることを求めましょう。

《ちょっと一言》

詩篇46:1

神はわれらの避け所、また力。
苦しむとき、そこにある助け。


 危篤状態の父親の看病をして思うことは、神を信じて天国という望みを持っている私には、する父に語るべき言葉があるという幸いでした。
 死に臨んでいる父親に、お医者の力、薬の力も限界があるのですが、すべてを支配されている全能全の神様が、何よりの力であり慰めであり望みでした。
無我夢中
マタイ6:21

あなたののあるところに、あなたの心もあるからです。

 イエス様は「あなたののあるところに、あなたの心もあるからです」と言われている。私たちの心の中で一番大切にしているもの、それは一体何だろう。
「なくてならぬものは多くない。いや、ただ一つである」ともイエス様は言われた。私たちは、天国にも行きたい、この世でも良い目をしたいと実に貪欲である。しかしどちらかを選択して、どちらかを捨てなくてはならない。
 私は、天国の方を選んで、この世の楽しみを捨てた。35年間、この決断に悔いはない。
 神の栄冠を得る為に、目標を目指して一心にこの道を走りたい。 

(ちょっと一言)

ピリピ4:8

すべての真実なこと、すべての正しいこと、そのほか徳と言われること、そのようなことに心を留めなさい。

 湯呑みに「今日なし得ることは明日に延ぱすなかれ。乗ってならぬものは悪い相談。捨ててはならぬものは義理。破ってはならぬものは約束。笑ってならぬものは人の失敗。踏んでならぬものは道ならぬ道。見てならぬものは人の欠点」と書いてあった。
 大変だ。ほとんど守れていない。私には、救い主が絶対必要だ。
自己反省
第一ペテロ5:5

同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。


 人間の美徳の中で最大の徳は、謙遜です。しかし高慢な心で生きてしまっているのが現実のようです。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられる」とあるように、ぜひとも謙遜を身に付けたいものです。では、どうしたら謙遜に生活できるのか。

1) 己を常に義としやすい者であるとの自覚。
人の小さな優しさの欠けが大きく写り、自分の大きな冷たさを小さく思っている心です。

2) 正しい神の言葉である聖書と相対する時、人は己の間違いに気がつく。

(ちょっと一言)

箴言4:23

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。
いのちの泉はこれからわく。

 
 人間は、自然の内で最も弱い一本の葦に過ぎない。しかし、それは考える葦である。これを押しつぶすのに宇宙全休が何も武装する必要はない。風の一吹き、水の一滴で十分事足りる。だから我々はよく考えるようにつとめよう。パスカル
ホームページ新規開設のお知らせ
 いつもこのブログを愛読してくださっている皆様に感謝いたします。
 このたび、「日本バプテスト教会連合 泉キリスト教会」のホームページを開設いたしました。URLは以下の通りです。

 http://church.ne.jp/izumi-baptist/

 一人でも多くの方に見ていただけることを願っております。どうぞよろしくお願いいたします。

もう一つの世界観
第二コリント4:18
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

 我々が一つの物を見る見方は、色眼鏡をかけて見、あるいは、乱視、近視で見た見方を真として捉えた生き方をして落胆したり、思い煩ったりしているのではないだろうか。
 しかし、全く別の見方がある。それは、顕微鏡で見る世界である。
 この世だけがすべてのような生き方は空の空である。後には何も残らない。しかし、永遠の神を信じた人の歩みには、無限性を秘めた可能性が広がる、確かに手ごたえのあるものになると思う。
 「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
慰めよ 私の民を
イザヤ40:1

慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と
あなたがたの神は仰せられる。


 現代人の多くは、社会の中で命令的な言葉、攻撃的な態度、とげある言葉などで深く傷付いている。そういう心の傷をご存じである主は、慰めの言葉を語って下さる。

1)あなたの救い主がすぐそばに居られます。
乳飲み子を慈しむ親のように。

2)この世での労苦から解き放たれて、休息できる場所をあなたの為に備えています。

3)「人は捨てても、私は決して捨てない、見離さない。」
このように最愛なるとなってくださる主イエス様がすぐそばにいてくださることは、何という力となることでしょう。

(ちょっと一言)
ピリピ4:13

私は、私を強くして下さる方によって、どんなことでもできるのです。


 ある盲人の方がご自分で作られたという、紐で作られた伊勢エビの置物を見せていただいた。目のご不自由な方が作られた作品とは、とても信じられないような上手なできばえであった。自分はやらない先からできないと思いがちだが、ともかくもこの方のように、前向きにやってみようと励まされた。
与えられた命
エゼキエル書37:5

神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。


 すべての人の命は、創造者である神からの賜物です。この世に望まれないで生まれてきた人も、神は、あなたを望んでこの世に命を与えられました。そのへんのことをよく考えて、活かされている命を大切に活かしましょう。
 私の為に神があるのでなく、神の為に私があるのですから、何の為に自分が活かされているのかをよく祈って、その使命の為に全力を尽くしましょう。
 そこに神の栄光が現れるのです。  

(ちょっと一言)
ピリピ1:21

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。


 このような言葉を告白できる宗教が、他にあるだろうか。人は死目にあった時、死にたくない、命だけは助けてくれと叫ぶ。私もキリストを信じる前は、死が恐怖であった。しかし、今は、天国に行ける確信があるので、私にもまた死ぬことも益なのです。
 何と感謝なことだろう。
至れり尽くせりの神の愛
イザヤ41:10-14

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手であなたを守る。
見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、
恥を見、はずかしめを受け、
あなたと争う者たちは、
無いもののようになって滅びる。
あなたと言い争いをする者を捜しても、
あなたは見つけることはできず、
あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。
あなたの神、主であるわたしが、
あなたの右の手を堅く握り、
恐れるな。わたしがあなたを助ける」
と言っているのだから。
恐れるな。虫けらのヤコブ、
イスラエルの人々。
わたしはあなたを助ける。
――主の御告げ――
あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。


 不安と恐れを抱きながら、この不確かな時代に暮らす私達に、希望を与えてくれる聖書の言葉です。
 神は、

(1)恐れるな!と語られている。なぜでしょうか。「わたしがあなたを助ける」からだと。「あなたと共にいる」「あなたを守る」から恐れなくてもよい、のです。
  
(2)心配するな、と語られています。私達は、色々なことで心配してしまいます。 しかし、神は、心配するな!といわれています。なぜでしょうか。それは、私達を造られた神が、あなたのことを心配してくださるから、あなたは心配しなくてよい、といわれているのです。

(3)忘れるな!と語られています。神の愛を忘れるな、といわれています。自分がどういうところから救い出されたかを忘れないようにしたいものです。
シュネムの婦人に学ぷ
第二列王4:8~17

 ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこにひとりの裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それからは、そこを通りかかるたびごとに、そこに寄って、食事をするようになった。女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机といすと燭台とを置きましょう。あの方が私たちのところにおいでになるたびに、そこをお使いになれますから。」ある日、エリシャはそこに来て、その屋上の部屋に入り、そこで横になった。彼は若い者ゲハジに言った。「彼女にこう伝えなさい。『ほんとうに、あなたはこのように、私たちのことでいっしょうけんめいほねおってくれたが、あなたのために何をしたらよいか。王か、それとも、将軍に、何か話してほしいことでもあるか。』」彼女は答えた。「私は私の民の中で、しあわせに暮らしております。」エリシャは言った。「では、彼女のために何をしたら良いだろうか。」ゲハジは言った。「彼女には子どもがなく、それに、彼女の夫も年をとっています。」エリシャが、「彼女を呼んで来なさい」と言ったので、ゲハジが彼女を呼ぶと、彼女は入口のところに立った。エリシャは言った。「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになろう。」彼女は言った。「いいえ。あなたさま。神の人よ。このはしために偽りを言わないで下さい。」しかし、この女はみごもり、エリシャが彼女に告げたとおり、翌年のちょうどそのころ、男の子を産んだ。


 満ち足りた人生を歩んだこの婦人は、一体どういうことを、心がけていたのでしょうか。

(1)人生、前向き、肯定的、創造的に考えて生きることを心がけていた。この婦人は、初老にもかかわらず、旅人の世話を喜んでしています。エリシャが神の人だと感じると、静まる部屋を作ります。実に、創造的な生き方です。そして、「あなたの親切に報いたい」とエリシャがいうと、「私は本当に幸せに暮らしている」と答えている。

(2)信仰を働かせた返事をしている。息子は、病気で死んだ。これが事実です。状況は、絶望です。しかし、「あなたの息子さんは、無事ですか?」と聞かれた時、全能の神への信仰を働かせて、「無事です」と返事している。

 その信仰に、神は豊かに報いられたのです。われらも・・・・・・。
神様有り難う
ルカ17:15~16

そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。


 沖縄の安田由美ちゃんは、小さい頃からイエス様が大好きで、人に親切な女の子であった。重い病気になって、10歳で天国に帰って行ったのであるが、苦しみの中でも、神様有りがとうと感謝しながら輝いて生きていたそうです。
 我々は、熱心に神様に祈ることがあっても、神に願うほどの熱い思いをもって、感謝の折りを捧げているだろうか。

〈ちょっと一言〉  
コロサイ1:5

あなたがたのために天にたくわえられてある望み

 私たちがキリストにあって持つ将来への希望は、地上における私たちの喜びであり力である。天国を思うのは、心に力を与える。なぜなら、わたしたちが望み得るすべては、天国において約束されている。
 地上では、うみつかれる。気苦労やお金のくめん、何を食べようか、何を着ようか、あれやこれやと心配が尽きず、思い煩い、ほとんど平安がない。死別に次ぐ死別の悲哀を味わっている。しかし、天国は、安息の場所。そこには、死もない、悲しみも、苦しみもない。あるのは愛と平安である。将来、天国が約束されているので、現在それを望んで、喜々として生きてゆける。
ブログの更新を再開いたします
 1月9日以降、このブログの更新が滞ってしまっていて、大変申し訳ございませんでした。実は、このブログの管理者が1月9日に突然入院することになり、今日退院するまでパソコンに全くアクセスできなかったためです。今日から更新を再開いたします。これからもできるだけ毎日更新するつもりですので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
エリヤの召天に学ぶ
第二列王2:1~11

 主がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられるとき、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。エリヤはエリシャに、「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから。」と言ったが、エリシャは言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。すると、ベテルの預言者のともがらがエリシャのところに出て来て、彼に言った。「きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っているが、黙っていてください」と答えた。
 それからエリヤは彼に、「エリシャ。ここにとどまっていなさい。主が私をエリコに遣わされたから」と言った。しかし、彼は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはエリコに来た。エリコの預言者のともがらがエリシャに近づいて来て、彼に言った。「きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っているが、黙っていてください」と答えた。
 エリヤは彼に、「エリシャ。ここにとどまっていなさい。主が私をヨルダンに遣わされたから」と言った。しかし、彼は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、ふたりは進んで行った。預言者のともがらのうち五十人が行って、遠く離れて立っていた。ふたりがヨルダン川のほとりに立ったとき、エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水は両側に分かれた。それでふたりはかわいた土の上を渡った。渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。わたしがあなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように」と言った。エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。


 人が人である限り、必ず、主に召される時が来るのです。エリヤの召天を学ぶことにより、死への備えをしておきたいと思います。

(1)思いもつかなかった主の恵みです。かって、イゼベルに命を狙われた時、「主よ、もう死にたいです」と願いましたが、その祈りは聞かれず、火の車、火の馬に乗せられて、天に引き上げられました。 

(2)死が何であるかわかります。一瞬の内に、神と共に存在していることがわかります。天上の身体を着せられて、栄光のキリストと話しています。(マルコ9:4参照ー注1) 
             
(3)人によい感化を残せるような生き方をして、備えておく。エリシャは「あなたのようになりたい!」と強く思いました。では、あなたは?
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エリヤの祈りに学ぶ
第一列王18:1、41-46 

 1それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」

 41それから、エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから。」42そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。43それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」44七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています」と言った。それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」45しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗ってイズレエルへ行った。46主の手がエリヤの上に下ったので、彼は腰をからげてイズレエルの入口までアハブの前を走って行った。


 神が答えられる祈りに学びます。

(1)神の約束に基づいた折りです。18:1. なぜ、私たちは祈るのでしょう。神が「私を呼べ」と語られているからです。

(2)確信の祈りです。 18:41. 答えられたと確信して、行動しています。

(3)へりくだった祈りです。18:42. 跪いて(しもべの態度です)

(4)ー生懸命の祈りです。18:43. 手ほどの雲が見えるまで、熱心に折り続けています。

(5)豊かに答えられた祈りです。18:45. 約束通り、天は、大雨を降らせ、カラカラの地を豊かに潤したのです。そして、地は、実を実らせたとヤコプ5:17-18.(注)に書かれている通りです。
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預言者エリヤに学ぶ
第一列王17:1-16
 

ギルアデのティシュべの出のティシュべ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」それから、彼に次のような主のことばがあった。「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。
 すると、彼に次のような主のことばがあった。「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。」彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。


 この時のイスラエルの国は、悪王アハブにより、バアル礼拝が盛んに行われ、背信の罪に満ちた霊的暗黒の時代でした。その時、神に遣わされたエリヤにより希望への幕開けとなるのです。では、エリヤは、いかなる人物なのか。

(1)神の言葉を信じた信仰の人。神の言葉を信じていないと、2~3年雨がふらないと絶対言えない。

(2)神の言葉に従った従順な人。「旱魃になるから、ケリテ川に行け」はわかる。 しかし、カラスに養わせると言われても、あなたは従えるか?しかし、エリヤは、従った。

(3)神の言葉にへりくだった謙遜な人。今度は、異邦のヤモメに養わせる、と。プライドがゆるさない。しかし、へりくだって出かけた。
神あり望みあり
第一コリント15:20

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。


 復活は、死に逝く運命にある人間にとっての唯一の望みである。私は、無神論者の時は、死が最大の恐怖であったが、しかし、キリストを主と信じた時から、不思議に恐れは消えて平安な心になった。天国に再び生きるという望みが与えられたからだ。復活の主がおられるので、どんな困難な中でも、感謝と喜びを持って生きて行ける。
 賛美歌作詞者のクロスビーという女性は、生まれてまもなく盲目になったのであるが、しかし、「私が盲目になったのは医者の側では失敗だったかも知れませんが、神の側では失敗ではありません。私が肉体的暗闇の中で生涯を暮らすことは神のみ旨でした。その結果、神への賛美を歌い、人々を励ます者とされたのです。私は世界で一番幸福な人間です」と言っています。絶望を希望に変える力は、復活して今も生きておられるキリストだけです。

(ちょっと一言)
 星野富弘さんの「たんぽぽ」という詩がある。

いつだったか 
きみたちが空をとんで行くのを見たよ 
風に吹かれて 
ただ一つのものを持って旅する姿が
うれしくてならなかったよ 
人間だってどうしても
必要なものはただ一つ 
私も余分なものを捨てれば
空が飛べるような気がしたよ

 聖書にも、「なくてならぬものはただ一つ」と書いてある。我々は死へ旅立つのに何を持っていくのか?
自分作り
第一テモテ4:15-16

これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。

聖書は、自分をみがくように奨めています。この自分作りは一生です。ではどのように自分を躾けていけばよいのでしょうか。

(1)発想を転換します。1時間遅れると聞いた時、デボーションの時に

(2)違いを受け入れる。自分と違う音色を出す人を受け入れる。  

(3)周りや相手のせいにしない。自分を磨く鍛錬の場と時とする。

(4)失敗を恐れないで、良かれと思うことを、こつこつする。   

(5)赦し続けてゆくことです。主は、十字架で無制限に赦して下さった。

(6)あきらめないで、工夫してみることです。    

 桃栗三年、柿八年。自分作りは、一生です。
第一コリント6

 あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるようになるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視されるような人たちを裁判官に選ぶのですか。私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。ところが、それどころか、あなたがたは、不正を行う、だまし取る、しかもそのようなことを兄弟に対してしているのです。あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたのある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
 すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりは一体となる」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、体の外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。


 コリントの町は、道徳的に退廃していました。酒乱、淫乱、賭け事、争い、偶像礼拝などで堕落した人々が大勢住んでいました。そういう世の中の、悪事が教会の中にも入ってきて、罪を罪とも感じない者も出てくる始末でした。そういう教会に、正しくない者が神の国に入ることができないことを知らないのかと、パウロは、警鐘を鳴らしているのです。
 教会の世俗化も孤立化もどちらも間違いです。教会は、地の塩の働き、世の光の役目をしなくては意味がありません。その為には、何をするにしてもことごとく神の栄光の現れるように、意識して生きることが肝要です。

ローマ12:1
 

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 

《ちょっと一言》
マタイ5:44

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

 
 雨にも負けず、風にも負けず……という、とっても素晴らしい詩がある。私も真似て中傷にも負けず無視されることにも負けず、人を憎まず、罪を憎み自分を悪く言う者を許し祈ってあげ、決して人の悪口を言わず、裁かず、どんな人にも笑顔を向けて包み込んでいけるようなそんな私になりたい。
天の配剤
出エジプト16:1~5
 ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」
 主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。六日目に、彼らが持って来た物を整える場合、日ごとに集める分の二倍とする。」

 父なる神は、我々を、ご自分のかたちに似せておつくりになりました。(創世記1:26ー注1)
一緒に仲良く暮らすためでありました。愛と信頼関係が結べる霊的な存在としてです。
神は人のために、すばらしい環境をまず先に作られました。人が住むために、生活するためにふさわしい快適な環境であります。自然をおつくりになったとき、光を良しと見られた(創1:4ー注2)。「神はそれを見て良しとされた」(創1:12,18,21,25-注3)。最後に人を作られた。そして、「非常に良かった。」(創1:31-注4)

 しかし、アダムとエバは、サタンに誘惑されて、神にそむきました。エデンの園を追い出されました。聖なる神は人を愛されていますので、罪に汚れたままの状態で永遠に生きないようにとのご配慮で、命の木があるエデンの園から遠ざけられました。

 父なる神は、人をこよなく愛されていますので、いつの時代にも変わらぬ愛、永遠の愛でもって、人を幸せにしたいと、神の思いやりという天の配剤をもって、ご自分を現わしておられます。

天の配剤

(1) 自然界をもって、神の愛をお示しくださっている。
美しい花々を見よ。広い海、高い山々、夜空の星。夏は水分の多い果物、スイカ。冬は栄養分がいっぱいのジャガイモ、サツマイモ。暑い夏を迎えるために、梅雨がある。

ー止揚学園の『良い天気ありがとう』という本よりー
重い知恵遅れのマリ子さんが、7月半ばにお祈りで、「今日は、とても良い天気、ありがとう」と言いました。大雨が降っているときでした。
「川も魚も喜んでます。田んぼも畑も喜んでます。草も木も花も喜んでいます。山も琵琶湖も喜んでいます。東京の人も(水不足で困っていた)私も喜んでいます。神さま、本当にありがとう」

 私たちは、視界の狭い、自分の生活の、目先のことに大概とらわれて、知らず知らず生活していますので、自分にとって都合がよろしくない雨が続くと、洗濯物が乾かない、うっとうしいなあー、とついつい愚痴が出る。
 仕方がないのかもしれませんが、父なる神は、全世界的な、全国的な配剤をもって、やがて来る夏のために梅雨を与えてくださっていると思います。

 もう少し、視界を広くしてみましょう。もう少し、視点を遠くに置くことで、マリ子さんのように、温かさが生まれるのではないかと思います。

(2) 生活への配剤
マタイ6:25~34
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物より大切なもの、からだは着物より大切なものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、私はあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、このような花一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

 神とご一緒に生活されましたら、我々、人が生活してゆくための必要(衣食住)をことごとく満たされます。
出エジプト16:15~18
イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。

一回、一日分ずつ、必要な分が必ず満たされた。7日目の安息日には、その前日、二日分のマナが与えられた。しかも、腐ることはなかった。神の配剤であることを知る。 神は、人をつくられた方ですので、一生、責任を持って面倒を見てくださるお方です。40年間の荒野の生活で、着物も、サンダルも、擦り切れることはありませんでした。水も、果物も与えられました。

(3) 内なる人(霊的な存在、私の魂)への配剤
詩116:8
まことに、あなたは私のたましいを死から、
私の目を涙から、
私の足をつまずきから、救い出されました。

1)永遠の滅びからの救い
2)私の目を涙から(涙:悔し涙、悲しみの涙、痛みの涙、苦しみの涙、つらい涙)
3)私の足をつまずき(罠)から
この世の誘惑、金銭、異性(性的)、高ぶり

IIIヨハネ2
 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。
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新しく生まれる
ヨハネ3:1~10
 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。

 聖書はいつも私たちに思いがけない視点を示します。人間について、人生について、神や、永遠や、本物の愛や、自分自身について。

 ニコデモという人物は、多くの善良な人間を代表する人物であると言ってもいいでしょう。

 神の国である天国に、その人の善良さによってもし入れるとしたならば、この人は間違いなく入れた善人でありました。

 ニコデモという人のプロフィール
1) パリサイ人 神の戒めの書かれた律法を忠実に守る努力をしていました。

2) ユダヤ人の指導者 ユダヤの議会の70人議員の一人。国会議員で、裕福でありました。

3) イスラエルの教師 律法を教える専門家。 宗教家でした。

4) 老年 山あり谷ありの人生。人生の酸いも甘いもかみ分け、己の弱さも、人の心も自分の心も変わりやすいことも、十分承知してきました。

5) 真実で勇気のある人 (ヨハネ7:50~51-注1)
大多数がキリストを有罪に決め付けている中で、一人忽然と立って、大多数の意見と違うことを言うことは勇気があるし、真実に生きたいと思っていた証拠でしょう。

 まさに、よくできた人。この人が夜、イエス様のところに来ました。「夜」というのは、時間的にも夜のことですが、聖書は「夜」ということばによって、ニコデモの魂の状態を暗示しています。これは、象徴的なことばです。「夜」が魂の暗さとむなしさを象徴するのは、ヨハネの福音書の特徴の一つです(ヨハネ13:30-注2)。

 ニコデモは、神を畏れ敬い、聖書の戒めを正しく守り、また、人々に正しい生活をするように指導していた人です。宗教家として落ち度なく、外面的生活においても品行方正であったことでしょう。
 けれど、ニコデモの内面は、外の形とは裏腹に、「神が共におられる」という実感もなく、手ごたえのある宗教生活ではなかったようです。
 それとともに、もう一つ、死んだら自分はどこに行くのだろう、天国に入れるのだろうか、という不安があったようです。ですから、キリストは3節のように、神の国に入る話をされたわけです。
キリストは、人は、どんな人でも、人である限り、新しく(上から)生まれなければ神の国に入れません、と言われました。 
 聖書のことばを信じ、神の救い主であるイエスを仰ぎ見るときに、上から"Born again"、つまり、肉体の命が生まれてきたように、霊的な命が生まれるのです。

ヨハネ3:13~15
だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠の命を持つためです。」
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