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十字架に付けられたキリスト
第一コリント1:23

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

 この世は天国ではないから、悩みがあり問題があります。教会も、罪人たちの集まりですから、やはり、問題が起こってきます。このコリントの教会の問題は、自分の好みの仲間意識、仲間外れがあり、不道徳があり、食事の時の、自分勝手な振る舞いがあったのです。親鸞は、「薬があるからとて毒を好むべからず」と言っていましたが、我々も、イエス様の十字架のゆるしがあるからといって、罪を好んではいけないのですね。
 それと共に、キリストは、愚かな人々を賢くさせ、心の汚れている人々を清くし正しくし祝福する力です。

(ちょっと一言)

使徒17 : 28

私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。


 我々の命は、創造者である神によって与えられ、生かされている命である。愛なる神のみ手の中に我々の寿命がある。神は我々の生き方に期待しておられる。折角与えられた命であるのに、もし、自分勝手な生活をしているとするならば、何と言う無駄であり、空しいことでしょうか。神の私への期待に答える生き方をしたいものである。
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失意の時
ミカ7:8

私の敵。私のことで喜ぶな。
私は倒れても起き上がり、
やみの中にすわっていても、
主が私の光であるからだ。


 わたしたちの人生は、案外もろいものです。堅実で順調で華やかな人生を歩んでいるようでも、たった一回の過ち、小さな失敗、一瞬の不注意、不用意な言葉で、挫折してしまうことが少なくありません。そのような失意のとき、後悔する心を癒してくださる助け手をお持ちでしょうか。
 神が我々の味方であるなら、どんな暗闇でも光となる。ですからどんな障害も、その障害をばねとして強く生きてゆけるのですね。幸いかな、悩みの日に神を避け所とする人は。 

《ちょっと一言》 

ヨプ 8:7

あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる。


 暁の待望の中で、アンドリウ マーレーは、「朝ごとに神を求めることを辛抱強く続けなさい。どういうふうに恵みが来るかは知らないでもかまいません。几帳面に、忠実に、朝ごとに神と共にありなさい。あなたは育ちます。」と書いています。
赦されること許すこと
使徒7:60

そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないで下さい。」こう言って、眠りについた。


 人の態度、言葉によって、我々は深く傷付く。傷付けられた心は、相手を許せないと思う。恨みを持って、その人を、無視したり、けなしたりして、なかなか許せない。許せない心に、平和は宿らない。神の祝福は下らない。
 イエス様は、自分を十字架の苦しみに、追いやった者たちを、赦して祈られた。「父よ、彼らをおゆるし下さい、自分が何をしているのかわからないでいるのです。」
 神から多く許された自覚が、人を許す心となる。天を見つめた生き方をしたいものです。

《ちょっと一言》

 聖書は我々に真理を教えてくれる。そして、イエスが我々の救い主であることを教えてくれている。人類の中でイエスキリストほどの力強い働きをなした者はいない。あの三重苦のヘレンケラーは、「聖書は、私の全生涯の指針となり、力となり慰めとなりました。」と言っている。我々も謙虚に神の言葉である聖書に耳を傾けたいものである。   

詩篇119:105

あなたのみ言葉は、私の足の灯しび、私の道の光です。

埋められた宝
マタイ25:14

天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。


 この世の終わりに、主が、再びこの地に来られます。その日に臨む我々の心の在り方を教えている。

1)自分の才能、財産、境遇、体験、隣人、容姿などを神からの貴重な賜物として受け止める。

2)その賜物を、忠実に働かして用いることが期待されている。

3)主に対する思いが、忠実さとなるか怠惰となるかを決める。

 神は、ひとりごを我々に賜わった。その愛を覚え、委託されている宝を土の中に埋める怠惰なしもべにはなるまい。

《ちょっと一言》

 「自己を義とすることほど致命的なものはなく、悔恨よりも望みあるものはない。私たちは罪人以外の何者でもないことを告白せねばならぬ」
 スポルジョン
 
 不用意な言葉、わきまえのない言葉を吐いて傷付けることが多い私は、罪が深い。一度、口から出した言葉は取り返しようがない。言葉の重さに牧師の責任の厳しさを痛感している。

詩篇51:1

神よ、御恵みによって、私に情けをかけ、
あなたの豊かな憐れみによって、
私のそむきの罪をぬぐい去って下さい。

第一ヨハネ4:7~21

 する者たち。私たちは、互いにし合いましょう。は神から出ているのです。のある者はみな神から生まれ、神を知っています。のない者に、神はわかりません。なぜなら神はだからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいるものは神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛するものは、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。


 神は愛です。そして、その愛は喜びを生み出します。愛されていないことは、不安ですが、愛されていることは喜びです。このいつまでも変わらない喜びはどこから与えられるのでしょうか。うつろいやすい環境から、心がわりしやすい人からではなく、いつまでも変わらず命を捨ててまで愛して下さった神様を信じるところから与えられるのです。そして、この喜びは誰も奪い取ることはできません。

《ちょっと一言》

 桜井先生が『救いを受けていなくても、礼拝を守る、賛美歌を歌う、祈るという宗教生活はできるかもしれないが、神に自分の罪が赦されたという信仰生活はできない』と、こんな意味のことを言われたと思う。明日生きるという保障のない我々である、先のことを心配しないで、今「私をお許し下さい」と信仰生活の始めをもつ決断が必要ではないでしょうか。

第ニコリント6

今は恵みの時、今は救いの日です。

クリスマス序曲
マタイ1:18
 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

 イエス様のご誕生は、実に不思議な誕生です。
 第一に、それは特異な誕生でした。人間の父親ではなく聖霊によって、処女マリヤがみごもったと記されている。
 第二に、それは預言的誕生でした。イザヤという預言者が800年前に「救い主は処女から生まれる」と予言していました。ミカという預言者は、700年前に「救い主は、ユダヤのベツレヘムで生まれる」と予言していました。
 第三に、それは世界的誕生でした。見ず知らずの東方の博士たちが遠くから来て、その幼児を神の子として礼拝しました。

(ちょっと一言)

 ある本に、英国ブライトンのムーン博士は視力を失ったとき、「主よ私はこの盲目の賜物をあなたからいただきます。どうか、あなたの栄光の為にこれを用いることができるように。そして、あなたが再び来たりたもう時には、あなたご自身の目を報いとして与えてください。」と祈った。そのとき神は彼を助けて、盲人のためのムーン式の点字アルファベットを発明することを得させたもうた。それによって、多くの盲人は神の言葉を読み得るようになった。そして、多くの盲人は救われて神の栄光を現わした、と書いてあった。
わたしは良い牧者です
ヨハネ10:11
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

 聖書の中で、たびたび見かけるのは、主なる神が羊飼いで、私たちが羊にたとえられていることです。ここで、主イエスは、ご自分を指して、良い牧者です、と言われています。まず、羊とはどういうものでしょうか? 弱いものです。賢くありません。だから、羊飼いがいないと生きていけません。
 では、良い羊飼いなる主イエスは、どんなふうに私たちを大切にしてくださっているのでしょうか。

(1) あなたのすべてを知っていて、大切にしてくださっています。知るとは、深い絆を意味します。

(2) ご自分のを捨てられたほどに大切にしてくださっています。このことは、聖書の中心です。

イザヤ53:4~6
まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、
私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を
彼に負わせた。

復活されて今も生きておられる主は、私たちの良い羊飼いとして、群れの先頭をあゆんでくださっているのです。
雨を降らせない雲
 水なき雲のように、当てにならないものを当てにして生きている人々が多い。しかし、我々は、確実に当てにできる確かな生き方がしたいと思う。当てにして、決して裏切られることのない神の祝福を受ける人こそ、真に幸いな人生だと思う。主の祝福を受ける者となるためには、罪を言い表してそれから離れなければなりません。

箴言28:13
自分のそむきの罪を隠す者は栄えることがない。
しかしそれを告白して、それから離れる者は祝福を受ける。

(ちょっと一言)

「神は愛なり」 第一ヨハネ4:16

 幸福の秘訣とは、神の愛を信じきることです。この確信さえあれば、現実がどのように厳しくあろうとも、主の恵みだけを数えることができるのです。
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです
ヨハネ14:6

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

 
 救い主イエスの自己紹介です。「私が道です。」といわれています。天国に通じる唯一の道です。そして、日々、いかに歩むかの道です。  二つ目が、「わたしが真理です。」と言われています。私たちは、何が正しくて何が間違いなのか迷うものです。しかし、イエスは、絶対間違いのない正しいことを教えてくださいます。
 三つめは、「私が、命です。」といわれています。この命は、神ご自身の命そのものです。すべてのものの命の源だというのです。創造者であるのです。すべてのものは、この方のご意志から、造られてきているのです。この命に触れると生きるのです。

エゼキエル47:9

この川が流れていく所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。

人の子が来たのは
ルカ19:10
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

 人の子と言うのは神が人性をとられた表現で、ダビデの子孫から救い主が出ると予言されていたイエス様を指す。
 その、人の子がこの世に来られた目的が、失われた人を捜して救うためであり、人類がを得、それを豊かに持つため、そして、罪人を招くために来られたのです。
 イエスを信じる者は、誰でも、どんな罪でも許されて天国に入れます。

(ちょっと一言)

箴言15:17
野菜を食べて愛し合うのは、
肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。

「人間がこの世に存在するのは、金持ちになる為でなく、幸福になる為である。」 スタンダール
 金銭は、天国を除くすべての所へ行くことができ、幸福以外の何物でも買うことができるものであるとある本に書いてあった。
天国の特別の子供 
(作者不詳)
 天国がひらかれました。地球からはるか遠くで・・・。
 「次の赤ちゃんの誕生の時間ですよ」と、天においでになる神様に向かって、天使たちが言いました。
 この子は、特別の赤ちゃんで、たくさんの愛情が必要でしょう。
この子の成長は、とてもゆっくりに見えるかもしれません。
もしかして、一人前になれないかもしれません。
だから、この子は、下界であう人々に、特に気を付けてもらわなけれぱならないのです。もしかして、この子の言うことは、なかなか分かってもらえないかもしれません。何をやっても、うまく行かないかもしれません。ですから私たちは、この子がどこに生まれるのか、注意深く選ぱなければならないのです。

この子の生涯が幸せなものとなるように、どうぞ神様、この子の為にすぱらしい両親を探してあげて下さい。神様の為に特別の任務を引き受けてくれるような両親を!
 その二人はすぐには気が付かないかもしれません。
彼ら二人が、自分たちの為に求められている特別の役割を……。けれども、天から授けられたこの子によって、ますます強い信仰と豊かな愛をひらくようになるでしょう。やがて二人は、自分たちに与えられた特別の神のおぽしめしを悟るようになるでしょう。
神から授けられたこの子を育てることによって、柔和で穏やかな、この尊い授かりものこそ、天から授かった特別の子供であることを。
親として子として
エペソ6:1~4

子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。


 親として子として、我々がその立場をどのように受け止めて生きれぱよいのかについて、聖書の言葉に、耳を傾けたい。

1) 主にあって、親を、子を愛すること。神の愛が中心で、そこから親を敬い、子を慈しむ。

2) 真心から敬い、心を込めて子をしつける。

 そして、神が自分に与えて くださった親として、子として受け止めて親を尊敬し、子どもには、神を愛し人を愛することが一番大事であることを教えることです。その為には、まず自らが神を愛し人を愛する生涯を目指して生きることです。

《ちょっと一言》

第一コリント4:4,5

私にはやましいことは少しもありませんが、だからといってそれで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。

 自分を正しいと主張するのは、罪深い私たちの特徴です。あることについては潔白かもしれませんが、しかし、全体的人格的に見たら自分の正しさを誇って主張できるほど正しい人はいないのです。義人なし、一人もなし。
賢い建築家
第一コリント3:9
私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

 聖書は我々に人生の建てかたを教えてくれています。建築は、土台が大切であるように、時と共に変わるような財産、地位、人などではなく、「主なるわたしは変わることがない」と言われている主なる神を土台とした人生は、決して揺るぐことがないと書かれている。そして、それぞれの建て方は、それぞれが問われていることです。それぞれの生き方において大切なことは、成長させてくれる神に心を留めて生活することです。我々を深く顧みて下さる神にすがる人生は、豊かな人生建築となるでしょう。

 (ちょっと一言)

 ある日、あることを通して、最後の土壇場で闇から光へひっくり返してくださった生きている神の存在に触れて、神の憐れみの電撃に打たれたような強い衝撃があって、内から熱いものがこみあげてきた。
 そんな感動的な時に至る過程には、思い上がりという私自身の罪の大きさに打ちひしがれ、「主よ、助けてください」という魂の悲痛な叫びがあったからだと思う。
 「砕かれた悔いた心、神よ、あなたは、それを蔑まれません」
ここに愛がある
第一ヨハネ4:10
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 自分勝手な世の中、争いごとの多い世の中、憎しみと恨みの渦巻く世の中を見ていると、生きているのが嫌になるが、しかし、愛の姿を見た時、人の心に望みが溢れてくる。愛とは、人を活かすもの。
 わたしたちを命を捨ててまで愛してくれた御方はイエス様だけ。この愛を知った者は、どんな暗闇の中でも、明るく希望を持って生きることができる。

〈ちょっと一言)

箴言16:18
高ぶりは破滅に先立つ

 人に注意されて、腹が立つのと情けなく思うのとは全く違うとある人が言っていたが、確かに、前者は己を義と思っているので腹が立ち、後者は、己のたらなさまずさを思っているので、情けなく思うのであろう。常に自己反省をしたいものである。
神の力に支えられて
第一コリント2:2
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

 キリスト教の大伝道者パウロは、博学でしたが、その知識で、人々を説得することをやめました。なぜなら、知識で人を感心させることができましたが、そういうものは、人を心底救い得なかったからです。パウロは、死人を生き返らせることのできる神の力に支えられて、十字架につけられたイエス・キリストを、死から復活されたを伝えることを中心に話しました。その単純な話が、人々を罪と死と滅びから救うという事実を目撃しました。

(ちょっと一言)

「彼らの救いの君を、苦難をとおして全うされた」 

ヘブル2:10

この世界は偉大な人格を忘れない
だが、偉大な人格は贅沢からはつくられない
彼は苦難によって造られる。
                     「荒野の泉」より
神は我等の避け所また力
詩篇46:1
神はわれらの避け所、また
苦しむとき、そこにある助け

 絶対という言葉は、人は死ぬ者である、そして、人は間違う者であると言う時にしか使えぬ言葉であるとある本に書いてあったが、人間という者は、弱い者、間違いやすい者だから、そんな自分を支えてくれる確かなものを求めます。多くの人は、金の、酒のを支えとして生きています。けれど、本当の助けとなるのは天地万物の造り主である神しかいないと思います。

ローマ8:31
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

(ちょっと一言)

創世記1:1
初めに、神が天と地を創造した。

 水道の冷たさに冬を知り、人を許せぬ心に罪を知り、自然の美しさに、神を知り、キリスト教の歴史の跡に、主イエスの復活を知る。
キリストの足跡に従う者
第一ペテロ2:22・23

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

 イエス様は、敵でさえも愛されて十字架の上で死なれた。ここに本物の愛がある。その愛は、罪は憎むが罪人は愛する愛である。しかし、我々の持つ気持ちは、罪を憎むとその相手も憎んでしまうものではないでしょうか。
 では、どうしたら本物の愛で人を愛しうる者となれるのでしょうか。それは、命の神と絶えず交わり、そしてイエス様の十字架の死の姿が、我為であると心に強く迫ってくる以外にないのだと私は思っています。

《ちょっと一言》   

第一ヨハネ3:15

兄弟を憎む者は、みな人殺しです。

 私はつい最近まで、嫌いと憎しみは、つまみぐいと盗みほどの思いの深さに於いて違いがあると思っていました。しかし、悪は悪、盗みは盗みとある人から聖書を通して指摘されて、自分の良心の鈍さに驚き呆れました。
役に立つ人
エズラ1:1~6 

 1ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。2「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。3あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。4残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』 
 5そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。6彼らの周りの人々はみな、銀の器具、金、財貨、家畜、えりすぐりの品々、そのほか進んでささげるあらゆるささげ物をもって彼らを力づけた。

 
 私たちは、神に助けられて、人の助け手となれます。役に立つ人であったエズラは、神からどういう助けをいただいたのでしょうか。
 
 人の心を動かして道を開いてくださった。 1:1. 1:5.  
 
 危険や敵から守ってくださった。

5:5 

しかし、ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので、このことがダリヨスに報告され、ついで、このことについての書状が来るまで、この者たちは彼らの働きをやめさせることができなかった。

6:22

そして、彼らは七日間、種を入れないパンの祭りを喜んで守った。これは、主が彼らを喜ばせ、また、アッシリアの王の心を彼らに向かわせて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。

7:28

王と、その議官と、すべての王の有力な首長の行為を私に得させてくださった。私の神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私といっしょに上るイスラエル人のかしらを集めることができた。


 常に、神の目が注がれていることを覚えてください。 

 では、次に、エズラは、どのように人の役に立ったのでしょうか。賜物を活用することによってです。

7:6

エズラはバビロンから上って来た者であるが、イスラエルの神、主が賜ったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをみなかなえた。

7:11 

アルタシャスタ王が、祭司であり、学者であるエズラに与えた手紙の写しは次のとおりである。――エズラは、主の命令のことばと、イスラエルに関する主のおきてに精通した学者であった――祭司であり、律法に通じている彼は、聖書を民に教え諭した。

 
 そして、みことばを重んずることによってです。

7:10

エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。

 それゆえに、神も彼を重んじ、御手が常に彼と共にあり、良き働きが出来たのです。我らも、みことばを重んじた生活をするなら、地の塩、世の光として、人のお役に立つことが出来ます。
愛されている幸福、愛する喜ぴ
イザヤ46:3~4

わたしに聞け、
ヤコブの家と、イスラエルの家の
すべての残りの者よ。
胎内にいる時からになわれており、
生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、
わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、
わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。


 人は愛されていることに幸福を感じ、愛することに喜びを感じる者であると思う。愛されている幸福を感じても、愛する喜びはないと思う。愛することは犠牲が伴うが、死んでも良いと思うほどの愛する人がいることは、すごく幸福なことであると思う。かといって、愛することぱかりではうみ疲れてしまう。人は弱い者です。変わりやすい者です。死ぬほど好きな人であっても、時と共に冷えてゆくことが多いのが常ですね。哀しいことですが、現実です。
 『人の求めるものは、変わらぬ愛です。』変わらぬ愛は神の愛だけです。「胎内にいる時からになわれており、年をとっても、わたしは背負う。」と言われる神を信じて初めて、愛されている幸福愛する喜びを実感できるのだと思います。

(ちょっと一言)
 「人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する者は守られる。」とあるように、今年の標語は、「神の前に正直に生きよう」、このことに務めたいと思っている。神の前に生きる人生ほど、揺るがないもの、平安な人生はないからです。そんな志を抱いてこの一年を始めて生きましょう。
パンが天から降る
出エジプト16:29

主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれの自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。」


 ここで学ぶ第一のことは、神は現在の我々の置かれている所の状態を良くご存じである、ということだ。人の力の及ばない荒野では、神は、奇蹟を行なって助けて下さる。しかし、今豊かな産物の取れる地に居る人は、すでに与えられている物によって生きるように願っておられる。
 次に、このマナは、一日に一日分だけ与えられました。これは、我々が神を信頼して生きる時、必ず困難に対しての助けの備え、助けの力が与えられる、ということです。
 そして、29節に、「心せよ」とあるが、この与えられた休みの日を、私利私欲の為に使う者は、その生涯は必ず徒労に終わる。しかし、命のもとなる神と豊かに交わる者は日々、新たなる力を受けて満足なる生涯となる。安息日を聖として心して守ろうとする者は、その前日、二日分のパンが与えられているという神の奇蹟を見るでしょう。

《ちょっと一言》

ヘブル13:5

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。


 全く見知らぬ人から「孤立惑で悩んでいる」と泣きながらのお電話を頂いた。そういう孤独は誰でも、一度や二度は味わったことがあると思う。その孤独を安易な方法で埋めようとする。その人も「本音で生きないほうが良いのでしょうか」と問うていた。しかし、孤独の隣に居られる愛なる神を知る時、人は、孤独が癒やされて、今度は相手にぬくもりを与える者とされると私は思う。
無比の愛
ヨハネ3:16

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。


 溺れている人が、溺れている人を助けられない。生きること、死ぬること、人生に悩んでいる人が悩んでいる人を助けられない。罪深い人間が、罪深い同じ人間を救いえない。
 ですから、神のひとりごであるイエス様が、2000年前に人として生まれられたのです,この方こそ、人類を悩みと重荷と罪と死と滅びから、我々を救って下さる救い主です。
 我々の代わりに十字架にお掛かりになり、救いの道を用意されました。そして、死よりよみがえって、ご自分が大いなる神であることをお示しになりました。今、天において我々の為に執り成しをしてくださっています。

《ちょっと一言》 

「喜ぶ者と共に喜び」ローマ12:15

 石井のぞみちゃんは、脳性まひで歩くことができません。でも、夜寝る時には、毎日、「神様、今日の幸せな一日を感謝致します」と言って折るそうです。そして、「おにいちゃんはどうして歩けるの?」と聞かれたお母さんは「お母さんのおなかに長くおれたから、体がしっかりできたんでしょうね…」とドギマギしながら笞えた。すると、のぞみちゃんは「おにいちゃんが歩けてよかったあ」と元気な声で答えたそうです。
 どこからこんな愛が生まれてくるのでしょうか。きっとのぞみちゃんが、愛なる神を純粋に信じているからではないでしょうか。
イエスを告発する者
ヨハネ8:7

けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」



1)裁かれるべき立場の人間が、裁き主である神の子を告発している人の心の傲慢さを見る。

2) 聖書は、他者を裁く為にあるのでなく、自分に語られているもの。

3 救い主が来られたのは、世を裁く為ではなく世を救う為である。

 (ちょっと一言)
 
 私は自分が嫌になるほど自分の利害得失にこだわっている。人に良く思われよう。人より偉く見られたい。人より清いと思ってもらいたい。自分の方が幾らかでも他人より得をしたいと思っている。こんな私の最後的祈りは「こんな罪人の私を憐れんでください」である。

ルカ1 8 : 13

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

我罪は我前にあり
詩篇51:3
まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。
私の罪は、いつも私の目の前にあります。

 自分は間違っていない、あるいは、自分は罪人ではない、と言い張る人に向かって、イエス様は、「自分は目が見えると言い張るところに罪が残る」と、その傲慢さを指摘されました。
 同じ罪を犯しても、大変なことをしたと思う人と、たいしたことはないと思う人とがいると思うが、「我罪は我前にあり」との深い罪意識が、大変なことをしたという済まない心に変わるのではないでしょうか。
 罪人として生きるところに平和が宿ると私は思う。

 (ちょっと一言)

ヨハネ16:8
その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。

 何か人から注意されたりすると、よく、「そんなつもりじゃあなかった」と思っている。別に悪気でした訳ではないのに、そこまで言わなくても良いでしょうと、相手に反発を感じている。
 結局は、自分は悪くない、文句を言う相手の方を責めて言い過ぎだと決めているのです。これなども、典型的な自我で、罪の根であります。悪いことをしたという良心の目覚めは、聖書を読むことにより罪の悶えが始まってゆくと私は思う。
花と愛と命
イザヤ43:4

わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
だからわたしは人をあなたの代わりにし、
国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。


 神は私たちの親です。ご自分の子供として深く愛して下さっています。その愛のしるしの一つが自然の美しさです。わたしたちを喜ばす為に創造して下さいました。そして、親が子を思う思いほど強いものはありませんが、そんな肉親の愛のきずなの深さを与えて下さったのも神です。そして、何より素晴らしいのは、イエス様を十字架に付けることにより我々に天国を与えて下さったことです。

イザヤ49: 15

女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。


(ちよっと一言)

第ニコリント4:18

わたしたちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。


「食物はお金で買えるが、食欲は買えない。薬はお金で買えるが、健康は買えない。寝台はお金で買えるが、睡眠は買えない。化粧品はお金で買えるが、美しさは、買えない。別荘はお金で買えるが、心地よさは買えない。快楽はお金で買えるが、喜びは買えない。友達はお金で得られても、友情は得られない。静かな日々はお金で得られても、平安は得られない」アルネガール ボルグ
イキイキ人生
詩篇121

私は山に向かって目を上げる
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、
あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、
まどろむこともなく、眠ることもない。

主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことがない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。


 この山は、困難とか問題の比喩です。人の力ではどうにもならないような問題を、どうすればへこたれないで乗り切ることが出来るのかを、教えています。イキイキ人生の、一つ目の要点は、目を上げるということです。状況から目を離して、上を向くことです。
 二つ目は、主が、その山を動かしてくださるということです。自分と問題の間に天と地を造られた神を置くということです。人には出来ないことが神にはお出来になるのです。
 三つめは、主の守りは万全だということです。この短い文の中に、6回も「守る」と言われています。私たちが、どんなに力のない者でも、弱く、臆病でも、主が守ってくださいますから、大丈夫なのです。

イザヤ46:3~4

わたしに聞け、
ヤコブの家と、イスラエルの家の
すべての残りの者よ。
胎内にいる時からになわれており、
生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、
わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、
わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。

トリプル的祝福
エレミヤ29:11

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来希望を与えるためのものだ。


 神は、我々を祝福されています。3つの祝福を、ここで与えています。

(1)希望を与えてくれています。失望しやすいこの世の中にあって、人には、神の与えてくださる希望が必要です。それは、この世の旅路の終わりに、あなたの住む場所、天国が用意されているというのです。

(2)将来を与えてくれています。老いも若きも、今のあなたに期待して、神は将来を与えています。それは、人生にチャレンジする力です。 イスラエルの解放者モーセは、80歳の時、神からスカウトされました。

(3)平安を与えてくれています。イライラすることの多い状況の中で、どこにそんな平安があるのでしょうか。それは、いつでも、神が、あなたの味方であるという平安です。
人生の支え
使徒27:25

ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。


 我々の人生は、何が起こってくるかわからない海の上を船出するようなものである。人間の力でどうすることもできない暴風が突然襲うことがある。276人その船に乗っていたが、その人たちの力も知識も、地位も才能も、財産をもってしてもどうにもならない時がある。
 突然の暴風が襲って望みの光が一つも見えない時、一体我々をがっしりと支えてくれるものは何か。

詩篇54 :・1

まことに、神は私を助ける方、
主はわたしのいのちをささえる方です。


 我々の命をご自身のみ手に握っておられる神でしかありえない。あなたがどんなにあがいてみても、助からないという絶望の淵に立つ時がある。その時、あなたが頼みとしているものが本当に確かな支えとなるものかどうかをよく考えてください。

《ちょっと一言》

創世記3:9

あなたは、どこにいるのか。


 私がー番こたえる言葉は「ついていけません」、「不信感を持っています」である。この言葉を聞くと、日頃たいした人物でないので、もともと気が弱い私は、ますます自信をなくして「済みません」と言っている。人の言葉で一喜一憂している。主体性のなさ、信念のなさを思う。 こういう言葉を言わずにはおれない、そこまで追い詰めてしまったその人の心を少しでも理解し、自分の言動を省みる反省の時とし克服したい。
松田猛先生
第一テモテ1:15

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

 松田先生は、酒飲みの父親が嫌で、高校を出ると家を出て、お坊さんになる為に浄土真宗の学校にはいった。そこで、教授に「人間、死んだらどうなるか」と問うたところ、「死んでみないとわからない。極楽があるのか、天国があるのか、私にはわからない」と言われたそうで、大変空しくなり、目的がなくなった。そんな時、クリスチャンの友達から手紙が来て、聖書を読んで、教会に行って下さいとあったので、試しに出掛けてみると、そこでイエス様に会い魂に安らぎがきたそうです。長年、仏教徒であったおかあさまも救われ、神様の恵みの大きさを語って下さいました。

(ちょっと一言)

ヨハネ20:20

弟子たちは、主を見て喜んだ。

松田先生が、こう言われた。「私は、自分の所属する団体の教会や他の教会にも話しに行きましたが、この教会に来て初めて、ここにイエス様が居られると強く感じました」と。
 これは何よりも嬉しい言葉だと思いました。イエス様が居られると強く感じる、そんな教会を目指しているからです。
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