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知っているとお得です
ピリピ2:4~5
4自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。5あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

(1) 5節、文語訳「キリストの心を心とせよ」。キリストの心とは、謙遜です。人のことを思いやる心です。生活の場で、キリストの心で仕えていきましょう。

(2) 私たちの目標は、神の栄冠を得ることです。

ピリピ3:13~14
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。

 この一事に、一心に。ひたむきさがゴールにつながるのです。 

(3)私たちの人生の動力は、キリストからきます。 

ピリピ4:12~13
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 パウロは、私を強くしてくださる神の力によって、どんなことでもできると言っています。これは、パウロだけのものでなく、キリストを信じるすべての人にあてはまることです。
 その力の供給は、どこからくるのでしょうか?4:9で神の無限の富からくるのだと教えています。 

ピリピ4:9
あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。
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オリジナル
犬は、みな神の与えた声で吠える。
それゆえ、犬は劣等感を持っていない。  チェーホフ

 ただ人間だけが、自分の声や容姿に劣等感を持ち、ひがんで、いじけて、生きている。ねくらである。しかし、本当は、わたしたちを造られた神様から一杯いいものを頂いている。そのことを知って明るく素直に、与えられた自分にしかない声で、胸を張って生きよう。
みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
キリスト者の自由
ガラテヤ5:1
 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

 我々は、生れつきの性質によって生きる時、邪悪の実を結ぶが、しかし、聖霊によって生きる時、愛の実を結ぶ者として下さる。
 聖霊によって、日々、歩む為には、徹底した悔い改めと上にあるものを、ひたすら思うことにより、変えられてゆくものである。
 我々は、聖霊の働きによって、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行くのです。

《ちょっと一言》

マタイ6:34
一日の苦労は、一日で足れり。

 スポルジョンは「一本の枝は、旅人を助けるが、何本も抱えて行くのは苦労である」と言っている。
 我々は明日のことを、取越し苦労をし思い煩い、昨日のことを持ち越し苦労をし、後悔で憂鬱になる。
 昨日のことは、反省して今日の力とし、明日のことは計画し、今日の希望とすることを、聖書は教えていると思う。
エノクの生涯
創世記5:21
 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。

 エノクの生涯を一言で言うと、300年神と共に歩んだ。こんな素晴らしい人生はない。神と共に生きることが、人の幸福の原点なのですから。
 ヘブル11:6にエノクは、神に喜ぱれていた、と書かれている。その秘訣は

1) 神を信じる信仰によって、日々歩んだから。
工ノクの生活した環境は、罪悪がはぴこり、道徳心は腐敗した暗黒の時代でした。そんな中でも、エノクは清く、正しく生きたのです。このことから、悪い環境は清い生涯の妨げとはならないということを教えられる。

2) エノクは65歳にメトシェラ(死ねば裁かれる)の誕生により、敬けんな生活への転機となった。
エノクの目には、きたるべき裁きの日が見えていた。我等も、きたるべき再臨の一点に目を留めて信仰生活を守りましょう。

ヘブル11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づくものは、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

《ちょっと一言》

マタイ5:44
自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

 ある先生から、中傷され、ののしられ、脅かされ、悪口を言われた時、私は、許せなくて三力月の間悶もんとしていた。しかし、十字架の上で、イエス様が「父よ、彼らを許したまえ」と、私を許し受け入れて下さったことを思うと、許せないと思っていた自分が嫌になり、「神様、あの先生を許します。あの先生を祝福して下さい」と祈れた時、私は、許しの意味がわかったような気がした。
 許すとは、相手の祝福を祈れることではないでしょうか。
母なる教会
使徒2:1
 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

 教会とは、主イエスを救い主と信じて集められた群れである。キリストは、教会を愛して命をお与えになった。キリストの命が、自分に与えられた所から信仰は出発します。そして、みことぱと聖霊によりわたしたちは、キリストに似た者に変えられてきます。
 次に、教会でキリスト信者は、聖書によって養われ、成長して勝利ある生涯を送ることができるようになります。
 最後に、色いろの人々が集まってきます。お互いを尊重して心を合わせて祈り合う時、そこに奇蹟を見ることになるでしょう。

(ちょっと一言)

ルカ5:5
でも、お言葉どおり網をおろしてみましょう。

 人の忠告に素直に自省できない「でも」は禁句。学んで成長するという真の目的を忘れさせる。「でも、私なりに……した」。
 しかし、神のみわざを見る「でも」は、勝利の言葉である。「でも、おことぱどおり……した」。
 「でも」の後に「自分なりに」を入れるか、「神の言葉だから」を入れるかにより人生は全く違ったものとなる。
引き裂く手に釘の跡
ホセア6:1
「さあ、主に立ち返ろう。
主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、
私たちを打ったが、
また、包んでくださるからだ。

 着物を作る為には、布地が裂かれます。それと同じように神は、我々に本当の幸福を与える目的で、苦しいところを通されます。
 ヨセフも、母には死に別れ、父とは生き別れ、兄弟たちにはいじめられ、奴隷として売り飛ばされ、無実の罪なのに、牢屋に入れられました。そのように引き裂かれた時が、13年続きました。しかし、「主は、我々を引き裂き、また、いやす」との約束の通り、ヨセフを祝福して、素晴らしく幸福な生涯を与えられました。神は、ヨセフぱかりでなく、その家族、親族に至るまで豊かな結実を与えられました。
 今、我々の家庭は引き裂かれている時かも知れませんが、しかし、同時に神の愛が我々の家庭に注がれていることを覚えたいと思います。

《ちょっと一言》

マタイ7:13
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。 

 分かっている人は、分かっているだけに、つらい人生を生きてゆくと思う。分からない人は、傷つきもしない、悩みもしないかわりに本当に大切なものをどんどん、失っていっていると思う。私は、分からんまま人生を終わるようなつまらない人生でなく、たとえ悩み、疲れ、傷付いても分かっている心を持って生涯を閉じたいと思っている。
神の愛は
ルカ7:12
イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。

 この世には悲しみが一杯ある。悲しみに、一番、二番と順番をつけられないが、子を失ったこの母の悲しみは、悲しみの極みに近いものであったろうと思う。
 神の愛は、言葉もない悲しみを越えていやされる。言葉も出ないほどの悲しみに押しつぷされている母親に助けの手を伸ばされた先行的主の愛を知る。
 つぎに、「かわいそうに思い」は、断腸の思いで心痛める主のご愛です。そして、人の悲しみのどん底に下りてきて触れて下さるのです。
 そして、死でその深い愛のきずなが切れないようにと我々に永遠の命を与えて下さるのです。

(ちょっと一言)

ローマ4:18
彼は、望みえないのに、なおも望みつつ信じた。そしてなお彼の信仰は弱らなかった。

強い信仰をもつただ一一つの道は、大きな試練を忍ぶことである。私は激しい試みの中に堅く立つことによって信仰を学んだ。
ジョージ・ミュラー

 わたしたちの周辺には失望する材料が一杯ころがっている。しかし、アプラハムが神ご自身のお約束の言葉に目を留めて、望みを持って生きたように、我々も彼の信仰にならいたい。
私たちの命なるキリスト
ピリピ1:1~6
  キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
 私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

 このピリピ書は、福音そのものであるキリストを伝えています。福音とは、良い知らせです。人にとって、キリストを知るということは、最高の良い知らせだと、使徒パウロは、言っているのです。この手紙を書いた場所は、ロ-マの獄中でした。キリスト信仰のために捕らわれていたのです。にもかかわらず、喜びがこの手紙には踊っています。それは、最悪の環境の中でも人は、命イキイキ生きれることを証明するものです。その喜びの源は、イエスキリストにあります。パウロは、1章20節と21節で、「わたしの身によってキリストのお名前が崇められたら、それで満足です。生きることはキリスト、死ぬことも益です。」と言い切っています。崇めるとは、拡大するということです。イエスさまがたたえられたら、それが嬉しいのです。ハレルヤ!

ピリピ1:20,21
それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
サウル王に学ぶ
第一サムエル15:17
 サムエルは言った。「あなたは、自分では小さいものにすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。

 サウル王の中に、三つの苦き根があり、それらを克服できませんでしたので、神の恵みから落ちて、悲惨な末路をたどってしまいました。

1) 世俗的でありました。神様のこと、心のことより、この世の中の物質的なことが、大きな関心ごとでした。

2) 不従順の苦き根があった。神様からの誉れより、人からの誉れの方を求めた、自己本位の信仰であった。

3) 嫉妬の苦き根があった。忠実な部下であるダビデに嫉妬し、良識から外れ、暴君となり、正道から外れてしまった。 
ヨブの生涯から学ぶ
 我々の品性は、苦しみを通して深められ、愛の人、清い人に成熟してゆく。
 ヨブは、財産、愛する者たち、健康を失った。けれども、ヨブは、恨まず、つぷやかず、主が与え主が取られたのだ、主の御名はほむべきかな、と神の善なることを疑わなかった。

1)わたしたちの家族、財産、健康、友達などすべてが神から与えられた賜物であることを覚えたい。

2)試練を通して、神の前の己の真相を知り、心の底から己の高ぶりを悔い改めた。

3)試練を耐え忍ぶ幸福を思う。

ヤコブ5:11
見なさい。耐え忍んだ人は幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。 

《ちょっと一言》

 人から注意されるといじけて、「私なんかいないほうがいいのだ」とか、反対に反発して「そこまで言わなくてもいいのに」とか、相手を責めていることが多い。
 恩師を裏切ったユダは、「こんな私なんかいないほうが良い」と、神が決して望んでいない自殺をしてしまった。一方、ペテロは、「許されないようなことをしてしまった」と、心砕けて、神の裁きに身をゆだねた。ユダの心は、放蕩の心。ペテロの心は、ざんげの心。本心に立ち返った心。

ヤコブ4:10
主のみ前でへりくだりなさい。
病者の祈り
大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった

より偉大なことができるように健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱を与えられた

幸せになろうとして富を求めたのに       .
賢明であるようにと貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた
神の意にそわぬ者であるにかかわらず心の中の
言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ

(ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩)

《ちょっと一言》

 バラの咲く所には雑草は生えない、と聞いた。愛するということばかり考えていたら憎しみという雑草は生えないということなのか。

ローマ12 : 20
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。
マタイ4:1
 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

 イエス様は、悪魔の誘惑を受けたが、罪を犯さず勝利された。全部、聖書の言葉で勝利された。 
 このように、イエス様の仝生涯は、神の言葉である聖書が土台でした。それと同じように、我々も聖書が人生の土台であれぱ、勝利ある人生となる。
 次に、聖書は人生の試金石となる。
 さらに、聖書は人にあてはめるものではなく、自分に語られている言葉である。自己不在とならぬように気をつけたい。

《ちょっと一言》

第一テモテ1:15

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

 自分は、まあましな方だと思っていたが、それはとんでもない誤りで、そうとうひどい自己中心の思いが強い者だと、光が当てられて分かってきた。とは言っても、パウロが言う「罪人の頭です」とは、心底思っていないので、そうとう、私の良心は鈍いのだなと、今さらながら呆れている。
ちりと梁
 私も悪いが、あなたも悪いとよく思う。反省と相手を責める気持ちが同居しているのである。しかし、自分に非が一点でもあれば、その一点を認めて改めることが大切で、相手を責める気持ちなどなくなればよいと思う。相手がどうであれ、自分が悪かったと己の非を認める者となりたい。

マタイ7:4
あなたの目のちりを取らせて下さいなどとどうして言うのですか、見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
天の父は
マタイ6:26
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

 イエス様は、天地万物の創造者である神をわたしたちに教えて、我々の天の父であると言われました。
 その天の父の愛は純粋無私です。計算も打算もなく、虚栄もなく純粋に我々一人一人を愛して下さっています。
 そして、天の父の愛は罪人の頭までとどく深い愛です。
 私は、カラスなどは気味が悪くて好感を持てません。しかし、天の父は、カラスにも心をかけて親切に食べ物を与えておられる。そのカラスよりも、もっとわたしたちのことに心をかけて下さっているのです。
 神の愛を信じて、明るく輝きましょう。

《ちょっと一言》

ルカ12:15
いくら豊かな人でも、その人の命は財産にあるのではないからです。

 『僕ガンだったの』という本の中に、「人生最大の悲劇は死ぬことではなく、十分に生きないことである」と書いてあるそうです。
いい加減に生きやすい私にとって、この言葉は深く心に留めて置かねばならないものだと思った。
憐れみの御手
ヨナ1:1~4
 アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。
 さて、主は大風を海に吹きつけられた。それで海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。

 私は、35年間の信仰生活を省みる時、一番心に響くみことばは、哀歌3:22

哀歌3:22
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
主のあわれみは尽きないからだ。

 今日、ヨナ書を通して神の憐れみのみ手は常にあるのだということをお伝えしたいと思います。憐れみのみ手は、どのような形で伸べられているのでしょうか。それは、備えられた。という具体的な形で示されています。
 不従順なョナにも、激しい暴風を備えて、悔い改めるチャンスを与えられました。そればかりでなく、溺死から守るため、大魚を備えられました。この「備え」のヘブル語の意味は、<任命する><指定する>という意味です。神は船から落ちてくるヨナを助けるように、その魚に命じたのです。そして、魚の腹の中というデボーションの場を備えられました。そして、罪悪に満ちていたニネベにも、預言者ヨナを備えて、救いを与えられました。
毒麦のたとえ話
マタイ13:24
 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。
 「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。

 毒麦と良い麦との区別は、苗の時はつかないのと同じようにこの世では、外観だけでは、善人と悪人との見分けがつきにくい。 
 ですから、人をすぐ裁いてはいけないのです。善人であった人が、悪人に変わることもあるし、悪人が、善人に変わることもあるからです。
 そして、収穫の時には、麦と毒麦との違いがはっきりわかって、毒麦は刈り取って焼いてしまい、麦は刈り取って倉に収めるように、すべての人は、死んだのち神に正しく全生涯を裁かれるのです。その時の裁きの基準は、イエスを救い主と信じているか、信じていないかによるのであって、天国と地獄に区別されます。

《ちょっと一言》

コリント第一 13:4
愛は人をねたみません。

 私の内に強く根付いている妬み。ともかくも、隣の芝生が青く見えるのです。自分が話の中心でありたいのに、なんか無視されているように思って、いらいらしてしまう。妬みは、相手の持つ物を欲しい欲しいと思う心であるから、祈りによって、神の愛が心に一杯になるまで、妬みの心は消えません。日々、日常茶飯時のこの罪との戦いだと思う。
命に至る道
マタイ7:13~14
 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

 誰でも、イエス様を救い主と信じるなら救われて、天国に入ることができるのです。このように、神様の側では、命に至る門を広く開けておいて下さっています。ただ、人間の方に問題があって、狭い門のように感じて入らない人が多いのです。人の心の中にある戦いは、神に従えば自分のしたいことができなくなるという自我との戦いです。そして、キリスト者になったら廻りの人にどう思われるだろうかという恐れであり、しかも、将来の生活の不安が、命に至る門をくぐれなくしているのです。
 これが本物だと知ったなら、どのような犠牲を払っても命を賭けてゆく意気込みが必要です。努力して狭き門から入りましょう。

      《ちょっと一言》

コロサイ3: 14
愛は結びの帯として完全なものです。

 相手が何もしてくれないとか、あるいは、私のことをわかってくれないとか、そういうことを、相手に望むのは一切止めよう。ただ相手を愛することのみ、その温かい心を、そっと渡そう。それが人の真の幸福であるのだから‥‥‥。
見なさい
ヤコブ5:11
見なさい。耐え忍んだ人は幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

 このところで聖書は、我々に4つの「見なさい」で注意を促している。

1)利己主義によって腐敗した社会を見なさい。 
金銭や物質だけが目的で生きている人への警告がある。そのような人は、「殺される日」も知らないで、肥っている動物に等しい。 

2)ふたたび帰ってくる主を見なさい。
農夫たちが、必ず降る二度の雨期を待って労働するように、必ず再臨して善悪を正して下さる時を待ちなさい。

3)神の聖徒でありながら聖徒たることに矛盾している聖徒を見なさい。
裁き主が戸口に立っているのを意識して、兄弟愛の精神で生きましょう。
   
4)苦しみを受けつつも、勇気を持って不動の真理に立つ者の姿を見なさい。
頂言者たちと、ヨブを見よ。

《ちょっと一言》

ピリピ 2:16
命の言葉をしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。

 万一あなたがたが無力であるがゆえに、人類の為に何の貢献もできないと思うならば、人に会うごとに、微笑みで迎えてあげなさい。微笑みは大きな財産であり、また力であります。   内村鑑三
祈りの生活
ヤコブ5:16
ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

 愛の生涯を送りたいと思っている人は、祈りが不可欠です。そして、特に祈りの生活では、戸を閉めて祈ることが大切
です。それから、祈りが答えられる為に気を付けておきたいことは、隠している罪を、早く神に告白して、神との関係を正しくしておくことです。
 次に、どんなことでも、事毎に祈ると言うことです。
 そして最後に、祈りは、すぐ慣れやすく、飽きやすいものですから、祈り続ける根気が必要です。
 主は、その求めの切なるによりて笞えて下さいます。

       《ちょっと一言》

箴言4:23
力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。
いのちの泉はこれからわく。

心の歪みは運命ではなく、本人自身の問題である。 シェイクスピア

 自分の罪は、親のせいでもなく、世の中のせいでもなく、自分の内にある自我のせいである。せめて良心的に生き抜きたいものである。
愛に生きる
第一コリント10:23 
 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。

 神は、ひとり子を賜うほどに、わたしたち一人一人を愛して下さいました。その愛を受けた我々は、当然人を愛することを中心にして生きてゆくのです。愛は律法を全うすると言われているように、愛すると言うことが人間の生き方のすべてであります。
 愛するとは、親身になると言うことで、喜ぶ者と心一つとなって喜び、泣く者と心一つに泣く心です。お互い、愛されることより愛することを求め、理解されることより理解することを求めてゆく者になりたいですね。

《ちょっと一言》

ペテロ第一1:8~9
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことぱに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びに踊っています。これは信仰の結果である、魂の救いを得ているからです。

 「強き神のみ子、永遠に変わらざる愛よ 我々はこの肉体の目であなたのみ顔を、見たことはありません
しかし、信仰によって、信仰によってのみ理論で証明できぬところのものを信じて、神の子をしかと、把握することができるのです。」 テニスン

 この詩によって、ヘレン・ケラーは、13歳の時、キリスト信者になったのです。あの三重苦の彼女が喜び輝く生涯となったのです。主を信じる信仰こそ世に勝たしめる力です。
ユダの手紙に学ぶ
ユダ1~4
 1イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。2どうか、あわれみと平安と愛が、あなたがたの上に、ますます豊かにされますように。
 3愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。4というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、わたしたちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。

 このユダの手紙は、偽りの教えに惑わされて、イエス・キリストを信じる信仰から離れてゆこうとしていた人々に、神のみむねを伝えるために、書かれたものです。このユダの手紙が教えていることは、おもに3つ。 

(1)信仰のために戦いなさい。(3節)イエスを主と信じたものは、信仰を守る戦いがあります。「十字架なければ、冠なし」の覚悟がいります。

(2)警告されています。7節・11節。
7また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。

11ああ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。

 罪を犯しても、悔い改めなかった3人のことが書かれています。カインの道。嫉妬、憎しみ。バラムの道。貪欲と偶像礼拝。コラの道。高ぶりとそしり。 

(3)日々、神の愛の内に生きるということ。 20節、21節。
20,21しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

 イエス様が一番と歩むことが、神の愛のうちに自らを保つということです。
黙ろうとしない男
マルコ10:46
 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群集といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。

 この所は、神の恵みを受ける精神と態度を教えています。
 第一に学ぶことは、チャンスを捕らえたということです。
 第二は、上着を脱ぎ捨てる信仰があった。主は、必ず私を救って新しい生涯に変えて下さると信じていたので、こういう態度をとりました。
 第三は、必死にもとめ続けた。
 第四は、明確な求めをした。
 そして、最後に、この人は生涯恩義に感じて、主について行ったのです。ですから、聖書にこの人の名がちゃんと記されているのです。

《ちょっと一言》

 涙を拭いてあげる愛と涙を流させる愛がある、と ある人が言っていた。聖書の中に神の愛を、 「神の慈しみと厳しさを」(ローマ11:22)と教えている。本当の愛とは、厳しくて優しいもの。どちらが欠けてもまずいものですね。
最初のしるし
ヨハネ2:11
イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 ここの奇蹟は、古いものから新しいものに交替するということがテーマです。 
 ここで学ぶことは、水がイエスによって葡萄酒に変えられたこと。儀式、戒律という喜びも何もない水を、イエスは、十字架と復活によって喜びの宗教に変えられた。そして、マリヤの祈りは、困っている事実を言っているだけで、何の注文もない。ただ、イエス様に任せておけば間違いがない、という信仰があった。そして、水が葡萄酒に変わる奇蹟を、まのあたりにできたのは、イエス様の言葉に従ったしもべたちでした。我等も傍観者でなく、お言葉を実行する者となりましょう。

《ちょっと一言》

マルコ4:36
イエスが舟に載っておられるまま乗り出した。

 「わたしたちがイエスと共に行くならば、彼と同じ境遇に満足せねばならない」 スポルジョン
 貧しさ、借家、非難、迫害、悲しみ、裏切り、孤独・・・。主の十字架により頼む一方で、自分の十字架を拒むことがありませんように、とベイリーのように祈る者です。
この病気は死で終わるものではない
ヨハネ11:4
イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

 このところで第一に教えられることは、神は、私たちの弱さを知っておられ、艱難を制限されるということ。
 第二は、この病気は死で終わって絶望と悲しみのみが後に残るというようなものでなく、そのことによって、神の栄光が現される場となるということを教えている。
 第三に、イエスの命と引き換えに、墓場のような命のない我々が生き返ることができるということを教えている。
 信じる者のみ、その栄光を見るのです。

(ちょっと一言)  

 イエス様は「ののしられても、ののしり返さず」の
お方でした。しかし、感情的な私は、批判にも、
「そんなことないわ」と言い返してしまう。
しかし、今後、批判を反省の機会として、自分の
成長に役立てたいとつくづく思う。
 「主よ!短気から私をお守り下さい。」
天と地の主なるイエス
マルコ5:15

そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。

 復活されたイエス様は、弟子たちに「私は、天においても地においても、一切の権威を持っている」と言われた。

1)自然界を支配されている主を見る。

2)霊界を支配されている主を見る。

3)病気を癒やされる主の力を知る。

4)死をも支配されている主を知る。

 これらすべてを貫いているみことばは「人にはできないことが神にはできるのです」

《ちょっと一言》

詩篇40:8

わが神。私はみ心を行うことを喜びとします。


 盲導犬の先生が「犬という動物は他の動物と違うところがあります。それは熊や馬が、褒美を貰って喜んでするのと違い、犬は、それらの褒美をもらわなくても、自分の愛する主人が心から喜んでくれることならば、自分から喜んで何でもするというところがあるのです」と書いていました。何という純粋で無償の愛でしょう。
 犬から愛を教えられる思いがします。
真の平安
第二列王記5:14
そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

 外面的にすべて整っていても、心が平安ではなかったら人は幸福ではありません。人は罪を持っていて、心安らぐことがありません。罪がゆるされて、初めて真の平安を持つことができます。
 ナアマンは、どんな経路を通って、その病が癒やされたのでしょうか。

1)自分に真実に話してくれる人の言葉に耳を傾けた。

2)彼は、エリシャを捜しに行き、逢いました。

3)預言者の言葉通り信じて、実行したので新生した。

     (ちょっと一言)         

第一サムエル1 2 : 24
ただ主を畏れ心を尽くして誠実に主に仕えなければならない。

 家庭に恵まれない子供たちのお世話をしている石井さんは、「何時も神様の前に正直に生きようと話しています。神の前に正直に生きることから生れる木当の喜びを知ると、自然に隠れた非行から離れていきます。」といわれています。
 我々も神の前に正直に生きられるよう務めましよう。
世の光なるイエス
ヨハネ8:12
 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 体に障害があるかないか、病気であるかないかは問題ではなく、心に光を持っているかどうかが問題であると思います。
 障害を持つがゆえに、心がいびつになって、とげとげしい一生を送る人もいるし、反対に、障害を持つがゆえに、神様のこと、人間という者を考えて、これは神様が私にくれた一生なんだということを悟り、美しい花のような存在の人々もおられます。ヘレンケラー、水野源三さん、星野富弘さん、田原米子さん、そして、白血病で11歳で召天した植木亜紀子ちゃんなどもそうでした。

《ちょっと一言》

 天声人語の中に、ある女教師が「私は、いつもほほえみを忘れないつもりです。微笑みは他人の心をやわらげるだけではなく、何より自分の心への微笑みになります。」
 聖書の中にも、「人を潤す者は自分も潤される」 箴言11:25

幸せに生きよ
民数記21:4~9
 4彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、5民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」6そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。7民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。8すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」9モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。


我々を創造された方の思いは、ただ一つです。「幸せに生きよ」の思い一つです。にもかかわらず、人は、幸せに生きておらず、不平と不満の暗い思いをひきずっているのでしょうか。その原因を、聖書は、はっきりと伝えています。神の与えた恵みのマナを軽んじているからだと(5節)悔い改めて、聖書を重んじた生活を致しましょう。
 二つ目は、救い主イエスを仰ぎ見るということです。罪は、罪を犯した人を滅ぼします。救いのために、旗ざおに青銅の蛇が掲げられました。これを仰ぎ見たら生きるとの神の約束でした。仰ぎ見たものは、生きました。今、罪人の身代わりとなって、イエス・キリストが十字架にかけられました。この方を仰ぎ見る者は、救われるのです。ヨハネ3章16節の約束です。


ヨハネ3:16
 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである
主は、私の良き羊飼い
詩篇23篇
主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追ってくるでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 ここは、神と人の関係を、良い羊飼いと羊の関係で話しています。羊は、弱く愚かな動物です。主は、私たちの弱さ愚かさをよくご存じで、助け、守り、力強い腕で導いて下さいます。この主を信じている者は幸いです。 

ヨハネ17:17
あなたのみことばは真理です。

 「判断が誤っているならば、行為もいつしか誤ったものとなる。だから、真理をかたく保て」とスボルジョンは言っている。正しい刊断が、正しい処置を生むのですから、より正確な情報、より大切なもの、永遠不変の真理を見つめて、本物を知っておくことが必要だと思う。
 果物などの判断が誤って、不味い物を買ってしまったからといって、それほどさしさわりはないが、しかし、治療の判断ミス、あるいは、人間関係の判断ミスは、命にかかわってくるので、くれぐれも慎重にしたいものだと思った。
主を畏れること
箴言9:10

主を畏れることが知恵の初め、
聖なる方を知ることは悟りである。


 榎本先生が「わたしたちは、自分の子供たちに対して何が重要であるかを教える義務がある。このようなことは人任せではできるものではない。そして、そのような教育は、わたしたちの生きざまによってのみ伝え教えることができるのである。」と言われている。お互い、真実なる神の前に誠実に生きる者となりたいものですね。
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