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天の御国
ヨハネ14:1~6
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道がわたしたちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

 人生は、旅である。山あり谷ありの旅である。その旅人にとって、帰る家もなく、待ってくれている人もないとしたら、何と淋しい旅であろうか。
 しかし、イエス様は、我々のために、天国に素晴らしい家を備えて待っているよとおっしやっている。
 この望みを持って生きよう。

〈ちょっと一言〉   

 我友、勝谷兄の勤めていた会社が、数年前に倒産した。退職金もなく、ご両親や家族を抱えて職捜しは大変だったようだ。今、水道管関係の力仕事をしているが、愚痴一つこぼさず、神第一の信仰生活をしている。
 長年勤めた会社が倒産して、苦労だったね、と言うと、うん、けど、その会社で出合った悩める青年を、キリストに導くことができ、今、共に教会で奉仕させてもらっていることを思う時、あの会社に導かれて良かったと思っている、と言った〔彼にはかなわんと思った〕。
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福音の言葉
第一コリント15:1
 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。

 聖書の内容の最も大切なことが、福音である。福音とは、イエスがキリストと信じる者は、誰でも罪許されて、永遠の命を頂けるということである。

 1)キリストは、わたしたちの罪の為に死なれたこと。

 2)葬られたこと。

 3)三日目に墓から復活したこと。 

 (ちよっと一言)       

 聖書は、永遠のベストセラーで、全世界で読まれて、読む人の心に生きる勇気と希望を与えています。

 聖書は、神が人類に与えた最大の賜物です。
             (アブラハム リンカーン)

 この機会に、ぜひ、あなたも聖書をお読み下さり、有意義な人生をお過ごし下さいませ。  
人にとって本当の幸せとは
詩篇32:1~2
幸いなことよ。
そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。
主が、咎をお認めにならない人、
その霊に欺きのない人は。

 聖書は、永続する幸せをこのように言っています。

(1)罪が赦されたということの幸いです。この詩篇の作者は、あの有名なダビデ王です。王ですから、権力・地位・財産・宮殿・国民の尊敬・妻・子供たちを得ていました。 しかし、そのダビデが、幸いなのは罪が赦された人だと言っています。

(2)神ご自身が幸せの根拠です。同じダビデが、詩篇16で、アサフが、詩篇73で、山あり谷ありの人生だけど、私にとって、神の近くにいることが幸せです、と言っています。

(3)幸いなのは、神の言葉を聞いて、それを守る人です。聖書を聞く機会があります。 しかし、聖書を土台として、生きる人が幸いなのです。

詩篇16:2
「あなたこそ、私の主。
私の幸いは、あなたのほかにはありません。」

詩篇73:28
しかし私にとっては、
神の近くにいることが、しあわせなのです。
私は、神なる主を私の避け所とし、
あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。
 皆が言うから正しいということではなく、皆がおかしいと言うから、ホナ やめようか、というようなことでなく、ガリレオのように、それでも地球は動く、という信念が必要だ。そのためには、真理をじっと、見つめておくことが大切である。
あなたの敵を愛せよ
マタイ5:38~39
 
『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪いものに手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい。

 わたしたちの親切は、エゴイストのわくを出ない優しさだと思う。自分の好きな人には、優しくできても、嫌いな人には、親切にはしたくないものである。
 しかし、木当の愛は、相手が自分に背く者にもかかわらず、なお、愛しているものである。
 人は、神の愛を受けた時、この愛で愛する者と変えてもらえる。

《ちょっと一言》

 わたしたちの最大の宝は、天国である。
 私にとっての最大の関心事は、天国に入ることである。
 天国ということを、何時も人生の問題の選択の指針にしたい。
勇士ではあったが……
第二列王記5:1
アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。

 誰でも、たとえ物質的に恵まれていても、心が清くないと幸せではないと思う。愛せない、許せない心。人の失敗をほくそえむ心……そんならい病のような心。
 イエス様を信じる時、完全に赦される。このお方に、生涯ついて行こう。

《ちよっと一言》

 自分は、つくづくと軽い人間だと思う。また、人の優しさに、すぐ、あぐらをかいたりする甘い者だと情けなく思う。
 その原因は、考えない心、反省しない心から出ているようだ。
ヨセフの生涯から学ぶ
創世記50:19~20
ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

 ヨセフは、13年間、荒野に追いやられて訓練を受け、人格が練られて、謙虚な人となりました。
 ヨセフは、神が共におられた人です。
 神を畏れていた人です。
 神の時を信頼して持つことをした人です。

《ちょっと一言》

 どんなブスでも、ブ男でも、魅力的な人になれる。化粧とか、整形手術とかのような作った美しさではなく、モーセに見るような、ステパノに見るような、神々しい輝き、天使の美しさを漂わす魅力。
 その秘訣は、聖なる神の近くに存在することだ。聖なる神との交わり、祈り以外にはない。一度、試してみては?
東方の博士たち
マタイ2:1
 
イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

 彼らは、救い主にお会いするという恵みに浴せたのだが、我等も、やがてお出でになる王なる主に、お目にかかる恵みを得る為に、博士たちの心意気を学ぼう。

 1 期待する心 2 犠牲を払う心 3 礼拝する心があった。

《ちょっと一言》

 現代の人々は、人に負けたくないとか、あるいは、取り残されるという思いで、忙しくしている。イライラとストレスが溜まる。休みたいという本音と弱みを見せたら、置いてきぼりにされるという葛藤の中でもがいている。友よ、すべてを支配し最善をなして下さるやさしき主イエスが、こう言われている。「寂しい所に行って、しぱらく休みなさい」と。主を信頼して心を休めよう。 
新生人
使徒の働き3:1~10
 ペテロとヨハネは午後3時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日、「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。するとペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぷしが強くなり、踊り上がってまっすぐに立ち、歩き出した。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりと一緒に宮に入って行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」に座っていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

 不幸の代名詞といえるような男の人が、世にも幸せの代表の一人になった物語がここに記されています。この男の人は、エルサレムの美しの門という所で物乞いをしていた、生まれつき足のきかない障害者でした。この人がある方の名の力により、全く新しい命を吹き込まれたかのように、生まれて初めて、自分の足で立ち、踊ったり、はねたり、神を賛美しつつ、神を礼拝するために神殿に入って行ったというのです。この人が絶望から、希望の道に進むことになった、ターニングポイントは、ナザレのイエス・キリストの名の力です。私たちの人生がどれほど空しく、さぴしいものでも、十字架に死んで、3日日に死よりよみがえられたキリストが、あなたを全く新しい人生に変えてくれます。あなたもキリストの名によって、「新生人」に!
生きる意味
ヨハネ9:1~5
 
 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」

 人は、何の為に生きるのか。
 時計は、人の手によって、人に時を知らせる目的の為にある。人は、神の手によって、神の栄光を現わす目的の為存在している。神を愛すること、人を愛することの為に我々は生かされている。

《ちょっと一言》

 ある人から、あなたは、なにかしてもらって有り難うは言うが、それどまりで、「いかにしてそれに報いん」と応答していない、と言われた。胸にこたえました。
悲しみの人
 イザヤ53章に、イエス様のことを「悲しみの人で病を知れり」とある。イエス様は我々の悲しみや心の痛みを知り、それをご自分が吸収して、十字架にかかられたので、我々の悲しみは癒やされて、喜びに変わったのです。
教会の礎
コロサイ1:18
また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

 わたしたち一人一人は、偶然にこの教会に来たのではなくて、神が、この教会に、あなたが必要だと、ここに置かれたのです。あなた一人が欠けても、教会本来の姿が失われます。キリストを頭とした身体の自覚を持ち、それぞれ、与えられた賜物を用いて仕え合いましょう。

《ちょっと一言》

 私は、己の弱さを知らないから、相手の弱さがわからず、気遣いができない、自己過信がある。
 私は、己の罪深さを知らないから、高慢になって相手を責めてしまう。自分を義としてしまう者である。
 「ちょっと一言」に書いてあることを、自らの問いに答えて身に染みて守っていたら、自分という者に見切りをつけてもっと謙虚に生きてゆけたのではと、後悔している。

ルカ6:41
あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。

 この言葉が私の心にいつもこだましていたらなあ。  
主に信頼する者は、失望させられることがない。
ローマ1 0 : 1 1
聖書はこう言っています。「主に信頼する者は、失望させられることがない。」

 わたしたちの人生に於いて、何度、もう駄目だと絶望することがあることでしょうか。
 しかし、どんな時にも、全能全愛の主を信頼して、決して、諦めてしまわないように、共に祈り合って神の助けを持ち望みましょう。
 祈りは道を開く。
神の子らの特長
1) この世に、未練なしという潔い心。

ルカ9:62
するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

2) 受けるより与えるほうが幸いであると知っている。

3) 信仰により困難の中にも、勝利の希望があることを確信している。 

4) 神の前に人生をどう生きたかを、問われる時があることを焦点にして今を生きている。

《ちょっと一言》

 私は、頭では、罪人の頭であると自分でも思い、人にも言っている。しかし、魂の深いところでそのことの悶えが希薄であると思う。
 つまり、知識において知っているのと、良心において知っているのとの差であると思う。

第一ヨハネ1:8
もし、罪はないと言うなら、わたしたちは自分を欺いており、真理は、わたしたちのうちにはありません。
現状をよく考えよ
ハガイ1:7
 万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。

 神のお住まいになる心の神殿が、なおざりにされていないだろうか。わたしたちの気持ちは、自分の都合とか自分の体の気遣いで一杯なのではないだろうか。
 まず、神様を大切にした行動をしてゆく時に、豊かな祝福が注がれる。

《ちょっと一言》

箴言1 2 : 1 5
愚かな者は自分の道を正しいと思う。
しかし、知恵のある者は、忠告を聞き入れる。

 人の忠言を、どうしても素直にとれず、苦言のように受け止めて聞きたくないと思ってしまう。
 たとい、それが刺のある言葉でも、神が、その人の□を通して、私に語られているのだと、苦言を忠言として受け止められたら、私はどんなに成長するだろうかと思う。

(祈り)主よ、私を知恵ある者にして下さい。
(主の声)自分がごう慢な者だと認めよ。そうしたら素直に聞ける。

キリスト者生活とは
ガラテヤ4:7
ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

1節~3節 律法のもとにある人間の状態

4:1~3
ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。

4節~7節 キリストにある人間の状態

4:4~7
しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

 律法の下で、奴隷のように苦しい生活をしていた我々を、主がご自分の命を支払って、買い戻して自由の身分として下さったのです。
 神の子の身分の幸い。神を父としてしたしく祈れる幸い。

30節
しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

 「聖書は何と言っていますか。」これが、すべての我々の人生の道標として重んじられているでしょうか。

《ちょっと一言》

 わたしたちは、世慣れてくると、良心が麻痺し、世と妥協し、世と歩調を合わせて生活している。それを、しばしばキリスト者の寛容であると錯覚している思いが強いのではないでしょうか。
 人の悪を見て、見て見ぬふりをすることが寛容ではなく、その人が悪から離れてゆく為の最善の努力を惜しまない温かさが寛容であると私は思う。
十字架に付けられたイエス
ガラテヤ3:1
ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。

 このところを読むと、律法とは、どういうものか、福音とは、どういうものか、が語られている。
 律法により、良心が目覚め、自分が神の前に立てない律法違反者であると知る。福音は、イエスを救い主と信じる者は、誰でも神に受け入れられる、と告げる。
 信仰により、9節、14節、22算、24節、26節などの祝福を受ける。

3:9
そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

3:14
このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

3:22
しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。

3:24
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

3:26
あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

《ちょっと一言》

 まったく思いがけない下痢に悩まされて、二日、休ませていただいた。日頃、健康の有難さを思っていたつもりであったが、それをなくして、改めて、食欲のあること、起きて動けることの有難さを強く感じた。そして、皆様の温かい心のこもった手料理を頂いたが、肉親のようなお心違いが身に染みたことです。
 ついつい恵みに慣れて、ないものに目を止め、つぷやき、不平不満で心を暗くし、いじけやすい者ですが、祈りの手、愛の手の支えに目を止めて、日々感謝する、今日の糧としたいと思ったことです。
キリストのしもべの心意気
ガラテヤ1:10
いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

 キリストのしもべの心は、人を怖れず、人のご機嫌をとるようなことはしない。ただ、ひたすら主の歓心をのみひこうと努める心である。

 このガラテヤ書は、偽教師たちが「パウロの話る福音が正しくない」、あるいは、「彼には、使徒としての権威がない」と教会をかき乱していたので、パウロが、その誤解を解く為に、ガラテヤの諸教会に書き送ったものである。
 「自分が使徒となったのは、キリストから直接、任命されたものである。そして、福音とは、イエスを救い主と信じる者が救われるのである。他に、何かを付け加える者は呪われよ。」

《ちょっと一言》

 ある病室の窓から、二人の人が外を見た。 
一人は、上の星を見て、詩が生れ、
一人は、下の泥を見て 不平を言った。
 わたしたちの環境が、どのように苦境の場であろうと、我々が見ているものによって、その見ているものに似て人生は作られてゆくのではないでしょうか。
 友よ、あなたは毎日何を心の目で見て生きているのですか。

ヘブル12 : 2 
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
イエスのたとえ話に学ぶ
マルコ4:2
イエスはたとえによって多くのことを教えられた。

 たとえ話は、一つの真理を伝えている。聖書は、真理が語られている書物であるので、真理を学びたいと思っている人にとってはどんどん本物が見えてくる。
 その真理がわたしたちを自由にし、確信ある生き方に導いてくれる。
 それから、自分が正しいのだという思いを持っていると謙虚に耳を傾けることができないので、自分の考えが、もしかしたら間違っているかもしれないという謙虚な気持ちで、耳を傾けていくと、豊かな実を結ぶ人生となる。

《ちょっと一言》

 ある人に「自分が愛されている、とどこで思えますか」とたずねたところ……… 
「自分の生き方を大切にしてくれている、とわかる時、自分はこの人に愛されているんだなあと幸せを感じる」と言われていました。
 確かに、自分の生き方を否定される時、他のことで良くしてくれても、自分は愛されているとは感じないだろう。人は、自分の大切なものを、大切にされる時、愛を感じるものである。
 ただ、人によって大切なものはまちまちであるが……
福音の真理
ガラテヤ2:5
私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。

 福音の真理を守る為に、日夜、闘いづづけているパウロの姿勢から学ぶこと。

1)決してあきらめない生き方をしている。

2)決して信仰のことにおいて譲歩していない。

3)決してキリストの死を無意味にしない。

《ちょっと一言》

 ある人が「自信は失ったほうが良いが、希望を失ってはいけない」と言われていた。良い言葉だと思う。
 人間は愚かにも、己の知恵を力を富を科学を誇ってきたが、しかし、今尚人間は、本当の幸福を平和を得ていない。そんな状態を聖書は「この世にあって望みもなく神もない人たち」(エペソ2:2)と。神がないということは希望がないことである。その逆もまた真である。
地の塩、世界の光
マタイ5:13
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

 塩は命を支える物である。キリスト者は命に至る道をのべ伝えることが第一の使命である。
 そして、塩は防腐の働きをするように、キリスト者は人々の良心となるような生き方をする者である。
 つづいて、塩は味付けをする。キリスト者も自分を捨てる時に、周りの人を活かすことができる。
 世界の光ということは、光によって、白は白、黒は黒、物事がはっきりわかってくる。これは、真理に生き真理を貫く生き方だと思う。

《ちょっと一言》

 ある本に、「罪認識は自己認識からくる」と書いてあった。
 私は自分が罪人であると知っているが、パウロが言う「罪人の頭」という罪認識の深さが、随分と違うように思える。  
 パウロは、神の前に真剣に律法を守ろうとしてきたから、あれほどの罪の意識が生れたのだと思う。
 やはり、自分は神の前に、いいかげんに生きているのだな。
クリスチャンの三つの基本認識
ピリピ3:13
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

1)我々は、神によって生かされている被造物である。
命を、私物化してはいけない。

2)天国が、目的地である.
後の世に持っていけない物の為に、一生懸命になるな。

3) 未来の審判の時に備えよ。
この時に信仰者の幸いと不信仰者の災いが明らかになる。

《ちょっと一言》

 放蕩の心とは、自分の気持ちの方を大切にして相手の気持ちをないがしろにする心である。      
 ある娘さんに、ルカ15章の放蕩息子の話をした時、「その男の人、情けない人ね。自分が勝手に出て来たんやから、私やったら死んでも帰らんわ」と言われた。
 そのことを、ある先生に話すと「それが放蕩の心なんだよ」と教えられた。「自分はそれで良いかも知れないが、親の気持ちを考えてごらんなさい」と。
 自分なんかいないほうが、親の為になるという思い。
 つくづくと我心にある放蕩の心を悲しむ。
アダムから学ぶ
創世記1:31
神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 アダムは、言うことのない環境の中で堕落した。わたしたちは、環境さえ良くなれば、幸福になる、という考えを、見事に打ち砕く。 
 我々は、ないものに目を留めて、飽くことを知らない者であるから、与えられている物に目を留めて、足るを知らなければならないと思う。
 次に、アダムは、神から注意された時、ご免なさいと言わず、自己弁護している。私も、よく、そんなつもりではなかったと言っている。すいませんと言える素直さが大切だと思う。
 そして、そんな罪深いアダムにもかかわらず、神は愛して回復の恵みのしるしを与えて下さった。皮の衣と福音である。

《ちょっと一言》

 「どうせ私は噂の女………」という歌の文句があったが、私の内にも、「どうせ、私は……ですよ」と 開き直る心が強い。しかし、こんな思いのままでは、いじけた男になるので、何とかしたいと思っている。

エレミヤ31:3
永遠の愛をもって、私はあなたを愛した。

と言われた主を思っていたい。されば、主のご愛にこの心も溶かされるだろう。
生きてゆくってしんどいな・・・
使徒12:1~7
 1そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、2ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。3それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。それは、種無しパンの祝いの時期であった。4ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過ぎ越しの祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。5こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。6ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。7すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。

 生きてゆくってしんどい。私たちは、この世で束縛され不自由な目にあいます。ペテロは、理不尽な目にあっています。ヘロデ王は、人気とりのためだけに、ペテロを捕らえ殺害しようと思いました。このような状況の中で、どう向き合っていたのでしょうか。ペテロは、なんと安眠していたのです。なぜ?(1)復活の主を思っていたからです。

第ニテモテ2:8.
私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。

 生きてゆくって、ホントしんどいな!けど、祈ることができるのです。これが、二つ目です。5節。 But.しかし。日本語訳にはありませんが、英語には、しかし、教会は析っていた。と書かれています。主に祈る時、必ず道が開けます。主は、教会の祈りにまさる答え、ペテロの奇跡的な救出をしてくださいました。

詩篇46:1.
神はわれらの避け所、また力。
苦しむとき、そこにある助け。
神のつえ
出エジプト4:2
主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」

 生きるということは、さまざまの問題があり、障害にぶつかると言うことなのですが、その中でわたしたちの心を支え、悩みを乗り越えていく力となるものは何かということですが。
 モーセは、困難に向かって行くのに、神のつえだけを手にして、大勝利を得ました。
 神のつえというのは、神が共にいて下さるということ、神の約束された言葉であります。我々の人生を根底から支えて下さるのは、この神のつえだけだと思います。
 もう一つ教えられることは、我々の命が、神の手の中に在るということを知る時に、長く生きることよりいかに生きるかを考えてゆくと思う。

《ちょっと一言》

第ニコリント7:10
神のみ心に添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

 「まあ良いか」とよくつぶやいている自分。
 これは己のまずさを肯定している姿で、少しも良くならない。
 常に「まずかったなあ」と反省するようになると、私も、少しは成長するのではと思っている。
復活の希望
第一コリント15:35
 ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」

外国にも、日本にも、良い教えの宗教はあるが、教えを残して、教祖は、死んで、もういない。
 しかし、キリストのみ我々の罪を負って、一度死なれたが、日曜日の朝に、栄光の体で復活された。
今も、生きてすべてを支配しておられるのです。
 以前、私は死が恐ろしかったのですが、キリストを信じた時、怖れは消えて、天国に行けるという希望を持ちました。確かに、キリストによって、死は勝利に飲まれてしまったのです。

《ちょっと一言》

ピリピ1:21
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

 沖縄の島袋兄は、信仰のゆえに、籍を抜かれてしまった。
ある牧師が、彼を我子として籍を入れ大きくした。
まさに、生涯を賭けていた姿に感動した。
キリストの受難
イザヤ53:4
まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

 キリストの生涯は、受難の歴史でした。我々は、先ず自分の幸福を自分を喜ばすことと考えますが、キリストはただの一度さえ、ご自分を喜ばすことをされなかったのです。
 キリストの受難を大きく分けて
1) 神の栄光を捨てて人となって生れて来て下さった
2) 33年間の生涯が愛と献身であったこと
3) ゲッセマネの苦闘の祈りと十字架の身代りの死

《ちょっと一言》

第一 コリント13:4
愛は親切です。 

 我々は、とかく親切の押売とか、独り善がり的親切で自己満足している。有りがた迷惑と言う言葉があるように相手の気を重くしている。本当の親切と言うのは、私も難しいと思っているのであるが、聖書を読むと、相手の命を助ける具体的な行動を指すらしい。
艱難さえも喜ぶ人生
ローマ5:1
 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

 艱難は、、どういう働きを私たちにもたらしてくれるのでょうか。

1) 神は、わたしたちを子供として愛してくださることを現している。

2) 高慢を克服できる。

3) 信仰が清められる。

4) キリストに頼ることを学ぶ。

5) 愛が深められ、他の人々を慰めることが出来るようになる。

 これらのことを思いつつ苦しみを乗り越えていきましょう。


《ちょっと一言》

 時間を失うことを恐れて、忙しく働いている。しかし、反対に心のゆとりを失って、イライラしている。走る心から歩く心で生きよう。
 立ち止まって、神の声を聞こう。我々は、遅れをとると思って立ち止まることを恐れる。しかし、静まることで新しい力を得るのだから、努めて立ち止まろう。

イザヤ40:31
主を待ち望む者は新しく力を得る。
種を蒔けば、その刈り取りもする
ガラテヤ6:8
自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

 わたしたちが、他の人との関係が悪くなる時、その根本的な原因は、ほとんど、自惚れとひがみからきていると思う。
 優越感から人を裁き、劣等感から人を妬む。これは、生まれつきの我々の肉の性質である。しかし、聖霊の人は、キリストの十字架の死というレンズを通して人を、自分を見るので、裁けず、ひがむこともなくなる。
 7節は、物・質的、霊的なことの祝福を得る原則である。思いを蒔けば、行為を刈り取り、行為を蒔けば、習慣を刈り取り、習慣を蒔けば、性格を刈り取り、性格を蒔けば運命を刈り取る。その人の何時も思っている思いがその人の人生を定めてゆく。

ガラテヤ6:7
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

《ちょっと一言》

第一テサロニケ5:6
他の人のように眠っていないで、目を覚まして慎んでいよう。 

 わたしたちは、弱い者なので、独りで信仰生活をしていると、何時の間にか、霊的に眠り込んでしまい、正しい道から外れ、危険な道を気が付かないで歩いている。
 ですから、目を覚まして正しい道を歩む為に、信仰の道連れを求めて、神の道について語り合うことが、信仰の火を消さない秘訣であると思う。
十字架
マルコ15:22-39

 そして、彼らはイエスをゴルゴダの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。

 
 教会のシンボルは、十字架です。なぜ、処刑の道具である十字架が、教会のシンボルとなっているのでしょうか。イエス・キリストは、十字架刑の苦しみの中、7つの言葉を語られています。その中から4つ選びました。十字架によって何がもたらされたのでしょうか。

1)神の赦しがもたらされました。
ルカ23:34

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。


2)神の家族となる恵みがもたらされました。
ヨハネ19:26~27

イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に、「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。



 地上の家族にまさる天上の神の家族となった言葉です。

3)パラダイス(天国)に入る恵みがもたらされました。
ルカ23:43

イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」



 このことを約束された人は、強盗でした。しかし、イエスを救い主と信じる信仰によって、救いにあずかりました。

4)神の子となる恵みがもたらされました。
34節。

そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。



正真正銘の神のひとり子が、罪人として葬り去られましたゆえ、罪人なる我等が、神の子としての特権を得ることが出来ました。

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