スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
マタイ16:21~23
 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずがありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 人は、どういうことを目的として生きているかによって、信念が違ってくると思うが、イエス様は、何時も十字架の道を目指してひたすら歩んでおられた。大変な迫力だ。
 我々も、損する道、捨てる道を歩むことを信念としたい。

《ちょっと一言》

 11日目の赤ちゃんを抱かせてもらった。自然に、鬼のような顔と心がほころぶ。皆が、この赤ちゃんを見るように生きていったら、争いとか憎しみが消えて天国のような安らかな所と変わるだろうに。
スポンサーサイト
他人の目で自分を見る訓練
箴言4:23~27
力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。
いのちの泉はこれからわく。
偽りを言う口をあなたから取り除き、
曲がったことを言うくちびるを
あなたから切り離せ。
あなたの目は前方を見つめ、
あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。
あなたの足の道筋に心を配り、
あなたのすべての道を堅く定めよ。
右にも左にもそれてはならない。
あなたの足を悪から遠ざけよ。

 とかく、人のあらはよく見えるが、自分のあらには気が付かないのが人間の本質だから、いつの間にか慢心して生きていることにさえ気が付かない。
 そこで、心に投書箱を置いて、人の意見を受け入れる素直な心を持てば、謙遜に歩めるのではと思う。

《ちょっと一言》

 世の中、たいへん便利になったと思う。車、電話、洗濯機。しかし、その反対に何か大切なものを失いかけているように思う。人間、物が豊かになるにつれて、創造者に対する思いが希薄になるように思えてくる。
 しかも、時間に追いかけられているようで、心が駄目になりそうだ。もっと自分の為に、静まって黙想する時をゆっくりと持たねばと、この頃しきりに思う。
『なくてならぬものは多くはない、いや一つだ』
なぜ、イエスは十字架に
イザヤ53:4~6
まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、
私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を
彼に負わせた。

 キリスト教がわからないと言う人は、罪という問題を真剣に考えてみたらいいと思う。
 自分が何と罪深い者かが分かると、キリストがなぜ、十字架に死んだかがわかると思う。
 私は、私がイエスを十字架に付けたのだと思っている。

《ちょっと一言》

 なぜ、私が牧師をさせてもらっているかと考えてみると、それは、こいつは、無理やりにでも説教をする為に、聖書を読むだろう、祈るだろう。そういうふうにでもさせないと、こいつは、信仰をなくすだろうと、主は、私の弱さをよくご存じだから牧師をさせて下さっているのだな、と思っている。
 主は、わたしたちの弱さをよくご存じで、さまざまの所を通される。凡てのことが、私の為であると信じられる。
ああ、嬉しくなる
第一コリント15:58
ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

 なぜ、嬉しくなるのか。
                                    
(1)主にある労苦が決して無駄にならないからです。
   どのような労苦が報われるのでしょうか。それは、主のわざに励むという労苦です。

(2)神がすべてのことを働かせて益としてくださるからです。

ローマ8:28
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

  ここでも、パウロは知っていると言っています。つまり、経験済みだということです。

(3)主を待ち望む者は、新しく力を得るからです。

イザヤ40:27~31
ヤコブよ。なぜ言うのか。
イスラエルよ。なぜ言い張るのか。
「私の道は主に隠れ、
私の正しい訴えは、
私の神に見過ごしにされている」と。
あなたは知らないのか。聞いていないのか。
主は永遠の神、地の果てまで創造された方。
疲れることなく、たゆむことなく、
その英知は測り知れない。
疲れた者には力を与え、
精力のない者には活気をつける。
若者も疲れ、たゆみ、
若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

  この新しい力とは何でしょうか。それは、聖霊の力です。この力は主を待ち望む者に豊かに注がれます。
人生の知恵
詩篇16:7~11
私は助言を下さった主をほめたたえる。
まことに、夜になると、私の心が私に教える。
私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、
私はゆるぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び、
私のたましいは楽しんでいる。
私の身もまた安らかに住まおう。

まことに、あなたは、私のたましいを
よみに捨ておかず、
あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
あなたは私に、いのちの道を
知らせてくださいます。
あなたの御前には喜びが満ち、
あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

 主を畏れることが、知恵の始め。
 主を知ることが悟りである。 
と言われているとおり、知識は人を高ぶらせ、知恵は人を活かす。その知恵は、心の中心を、常に主を畏れる所に置いておくところから生れる。

《ちょっと一言》

 愛は想像力を生み出す。愛の人は様々な場合を想定し、危険から守り、あるいは、よき知恵を与える。
 想像力に富んだ愛の人は、人の本当の必要に目を留めて生きている。身近な人のことを思い、心を使おう。
似て非なるもの
使徒 8:9~13
 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行って、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。

 同じ神でも、人間を造られた真の神と、人間が造った神とがある。一方は、創造者であり、もう一方は、偶像である。
 思い煩わないで生きているからといっても、信仰のゆえではなく、楽天的な性格のゆえであることが多いのではないかと反省している。

《ちょっと一言》

一人の憂いを癒やし得ば
 一人の涙を拭いえば
ー羽の弱りし小鳥をば助けて、
その巣に帰し得ば
我が生涯は無駄にならず。
  ……と ある本に書いてあった。
 私の心の中に、この思いを何時もこだまさせておこう。
母として
創世記25:24~28
出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。
 この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。

 聖書だから模範的な家庭のことかと思えば、違って、自己愛のゆえの偏愛が描かれている。父親のイサクは、鹿の肉が好物だから、狩りのうまい長男のエサウを愛し、母親のリベカは、台所で料理を手伝ってくれる次男のヤコブを愛したのです。当然、兄弟の間に、隙間風が入り、争いあうようになりました。親として生きるのは本当に難しいものです。
 では、どのように向き合えばよいのでしょうか?

(1)子供は、主からの賜物だという認識です。それを、私物化してはなりません。

(2)聖書を人生の指針として、躾けてゆくことが大切です。善悪の規範がない親にとって、最高の人生の教科書です。
この教会の信仰姿勢
ガラテヤ5:6
キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

 何時も、聖書は何と言っているかを、生活の基盤にしたい。
 そして、信仰が愛を越えたら人を傷付けるということと、正しいことより大切なことがあるということとを心の基本としたい。

《ちょっと一言》

 天声人語に書いてあったが、休の不自由な張さんが、「恐ろしいのは病気ではない、前に進む心を失うことだ。病気は苦痛です。でも、何もせずに生きていることはもっと苦痛です。」と言われている。良い言葉だ。私も、泣き言を言わず、くじけないでやっていきたいものだと励まされた。
祈りの力
使徒2:1~4
 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 聖霊なる神によって歩むということは、わたしたちの生命線です。神は、謙遜な人に住んで、共に生きてくださいます。
 そんな人の祈りは、力があります。

《ちよっと一言》

言い訳と反省の違い。

神のみ心に添った哀しみは、反省であり、これは、その人を再生させるものである。

この世の悲しみは、言い訳ということであり、それは、その人を滅ぼすものである。

人間は、言い訳の天才であり、人類の初め、アダムとエバは、言い訳をして、責任転嫁の罪を犯した。
命の君
使徒3:13~15
アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。

 キリストが死んで蘇ったことを、理論的に証明できないこともないと思う。殉教者、教会の存在、聖書の存在、クリスチャンの体験などで………。 
 しかし、人間という者は、自分に都合の悪いことはたとえそれが真実なことでも信じようとしないところがあるのではないだろうか。
 真実なことから目を反らさないようにしたいものだ。

《ちょっと一言》

 『優しい言葉で、相手を征服できない人はいかつい言葉でも征服できない』 チェホフ
 色いろと悩んでいる友よ。まず、上から一杯神の愛を受けよう。そうしたら愛の言葉を話しているだろう。
何が人を生かすのか
マタイ4:4
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

 絶望している人の心を、根底から生かすのは、金の力でもなく、人から来る慰めの言葉でもない。それは、神の言葉である聖書から来る。
 あなたは、神の言葉は生きていて力があるということを休験したか?

《ちょっと一言》 

 愛は、無駄をする。しかし、人の心を暖かくする。反対に、合理的生き力は、人の心を冷たくする。商売のそろばんは、問違っては困るが、人生のそろばんは、損をしたほうが素晴らしいと思う。
人の救われる唯一の方法
ガラテヤ2:16、20~21
しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。

 人間は、神様の律法を一つでも破れば、天国に入れない。けれど、誰一人として完全に守った人はいない。
 神は、イエスキリストの十字架の死のゆえに人間の罪を許す方法を与えられた。イエス様の血はすべての罪を清くします。

《ちょっと一言》

 神様の御用に役立つ人はどんな人でしょう。地位があり、才能がある人でしょうか。あるいは、財産があり、抜目のない人でしょうか。いいえ、神様の用いられる人は、主のしもべであるという謙遜な心を持っている人です。
愛を学ぶ学校
ローマ14:7~13
私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。次のように書かれているからです。
 「主は言われる。わたしは生きている。
 すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、
 すべての舌は、神をほめたたえる。」
こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。
 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

 キリストの学校では、特に、失うこと、捨てること、損すること、従うことを学びます。
 二つの道がある時、十字架の道を選びましよう。キリストは、始めに、あなたを愛して、そうしてくださいました。

《ちょっと一言》

 浅はかな私は何とかして、心深い人になりたいと悩んでいたが、ある人から、「自分を深く見つめること、知ることによって人は深くなってくるわ」と教えられた。
 確かに、人は自分の真相を知ると、謙虚にならざるを得ないと思う。
何が人の本当の豊かさなのか
ルカ12:15~21
そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人の命は財産にあるのではないからです。」それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 人の心を、本当に豊かにさせるものは、イエス・キリストを、知るということだと思う。この方に愛されている、知られていると知る時に、人の心は満足し、豊かな人生を生きられると思う。

《ちょっと一言》

 真理なるイエス様が、真理を語られた。受け入れた人は、真理を求めていた人であり、自分の人生、こんなことでいいんだろうかと渇いていた心の人ではなかろうかと思った。
 わたしたちの心は、つまらない物で満足し、つまらない物を求めているから、なかなかイエス様の素晴らしさが分からないのではなかろうか。
私は・・・・・・である
ヨハネ4:25~26
女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

 イエス様はご自分のことを、こう言われている。「私は救い主である」「私は有って有る者である」「私は命のパンである」と。
 これらの言葉は、我々に決断を迫る。信じるか信じないか、その選択により、人の運命が決まるほど大事な言葉です。

《ちょっと一言》

「大きなことでは一致、小さなことでは
自由。 すべてのことに愛。」
            アウグスチヌス

 このことは人との一致と交わりの原則を言っていると思うが、受け入れる寛大さとそれは、神の栄光になるか、ということが要だと思う。
民数記12:3
さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。

 人は、清い神様とであって始めて、自分の心の汚れていることに気が付く。偉大な神の前に己の取るに足りないこと、小ささを知る。そして、こんな者さえも神はみ心に留めて愛していて下さることを知る時、人は謙遜に生きていける。

《ちょっと一言》 

 クリスチャンの新渡戸稲造博士が言われた言葉ですが、「青年は、進んで信仰に志すか、それとも、誘惑に陥って罪悪の生活を営むか、二つに一つの運命をもつものである」と。
 聖書に、「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたの言葉に従ってそれを守ることです。」と書かれています。
父の許しなくば
マタイ10:28~31
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

 すべての出来事は、愛なる神様のお許しなくば決して起こらないことを知る時に、試練に対するわたしたちの気持ちが違ってくるのではないだろうか。神の愛であることを心から信じる者でありたい。

《ちょっと一言》

 罪は良心をまひさせると聞くが、自分が知らず知らず、人を妬み、疑い、欲望が強いと、悪魔と友達になっていることさえ気が付かなくなっている。
 何時も、自分自身を吟味したい。聖書と照らし合わせながら……。
励ましの言葉
使徒23:11
 その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われた。

 未知の世界へ踏み出そうとしている我々に、神からの励ましの言葉です。

(1)しっかりしなさい!この時、パウロの身に危険が迫っていました。40人の同胞に命を狙われていたのです。その時に主が現れて、励ましてくださいました。 

(2)辛抱しなさい!弟子たちは、質問して、いつ世が終わりますか?と主に尋ねますと、世の終わりの前兆はこうだと話され、その締めくくりに「最後まで、耐え忍ぶ者は救われます」と励ましてくださいました。

(3)精進しなさい!聖書は、たびたび努力することの大切さを教えています。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。努力して狭い門から入りなさい。我々は、霊的なことがらに精進してゆきたいものです。
キリストを見よ
ローマ12:17~21
だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

 悪には、悪をもって報いをしやすい私にとって悪には、善をもって報いなさいと言われる言葉が胸に響く。
 イエス様は、ののしられても、ののしり返さず、敵を愛し、敵の為に命を捨てられた。このお方を見る時に、わたしたちは、せめて、敵を憎まずにすむかも知れない。

《ちょっと一言》

 私は、ある時、人から食べ物を貰った。それを、ある人にもって行った。
 美昧しかったから、その人にも食べてほしかったのか。 たくさんあって困るから持ってきたのか。その動機をたずねられて困ったことがあった。
 いつも、これは自分の為か、相手の為か、ちゃんと見て行動すべきだと思った。 
みことばに生きる
マタイ4:2~9
イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」そしてイエスは言われた。「聞く耳のあるものは聞きなさい。」

 我々、キリスト者の一瞬、一瞬は神の言葉である聖書によって生きる者である。
 しかし、現実は、聖書と遠い生活をしている。それは、心の中に一杯あるものが生活に出ているからである。神の愛で心が一杯でありたい。

〔ちょっと一言〕 

 我々の目標は、天国に帰るという一事です。その栄冠を得る為に、今、苦しいことが多いけれど、人生の道を走っています。
 ですから、よそ見をしたり、わき道にそれたり、走ることをあきらめたりしないで、共に、励まし合いながら、完走しましょう。
歌いつつ歩まん
詩篇23
主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 イエス様はご自分のことを、「私は、世の光です」「私は、羊の門です」「私は、良い羊飼いです」
 この方を、主と仰ぐ者は失望に終わることなく、恐れは変わりて祈りとなり、嘆きは変わりて歌となりぬなのですね。

 『ちょっと一言』 

『この家の主人は、キリストである。
彼は、食事の時の見えざる客。
対談の時の沈黙せる聞き手である。』
と、刻まれている壁掛けがある。
このみちを行こう
伝道 2:1
 私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。

 神がないと言うことは、望みがないということです。反対に、神が有るということは、望みがあるということです。

 「悠悠たるかな天壌、凌凌たるかな古今、我五尺の小躯をもって、この大を計らんとす、ホレーショの哲学、遂に何らのオーソリティーに価するものぞ。万有の真相一言にして尽くす、いわく、不可解。我、この恨みをいだいて、厳頭、遂に死を決するに至らん。」  投身自殺者の詩

《ちょっと一言》

 ある方が「人間、ごめんなさいと言わない奴ほどやりにくい人はない」と言われていたが、本当にそう思う。
 素直に、ごめんなさいと言える謙虚な生活をこころがけたいと思う。
こんなプレゼント見たことがない
詩篇55:22
あなたの重荷を主にゆだねよ。
主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しいものがゆるがされるようにはなさらない。

 造り主なる神は、私たち一人一人に贈り物をしてくださいました。   

 (1)心配するな!という贈り物です。私たちは、色々なことを心配するものです。ここで「主はあなたのことを心配してくださる」と言っている。

 (2)重荷を負ってあげる、という贈り物です。誰しも重荷があります。だから、生きるのは、しんどいです。そんなあなたに神は「あなたの重荷を負ってあげよう」と言われているのです。

 (3)求めなさい!という贈り物です。これもすばらしいプレゼントだと思います。なぜなら、人は、わかってほしい、何々をしてほしいと要求してくるからです。 しかし、愛なる神は、「私に何をしてほしいのか」「求めなさい」といわれているのです。「オトウチャン!」と幼子の心で求めましょう。
全き献身
創世記 4:4
アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

 わたしたちは、アベルのように全き献身の生涯をおくれるように努めましょう。

1)時の使い方において

2)財の使い方において

3)自分自身の捧げ方において

 常に、主の栄光の為に、己を捧げてゆきましょう。

《ちょっと一言》

 あるお兄さんが、結婚式の時、妹に言った言葉。
「幸せに溺れず、悲しみに沈まず、人生の真理を探求する目をいつまでも、失わないように」

 良い言葉だと思った。私も、真理を探求し、人生を前向きに生きたいと思ったことです。
愛によって働く信仰
ヤコブ2:14
 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

 本物の信仰は、愛という形に現れてくる。行ないの面から自分の信仰を、吟味してみましょう。わたしたちは口先だけで愛を唱えても、空しい。真実な行ないをもって愛を示すことですね。100の愛の言葉より、1つの愛の実行です。

《ちょっと一言》

 自分が幸せであると感じている時、他人の不幸が見えなくなる時が多い。
 他人の不幸が見えなくなる時、人としての優しさを失っている時である。

 他者の痛みに鋭敏に心動く人となりたい。
神を信じなさい
私が、落ち込んでいる時、支えてくれた文章

『神を信じなさい』

 神を信じなさい。この一言を持って、イエスの生涯は一貫している。この一言ほど、やすくしてまた、難しいものはない。
 我等は、神に近くして、実は遠い生活をしている。動揺、不安、煩悶、悩みの日々を送るのは、これがためである。神を信じれば良いのである。神を神と信じ我神と信ずるのである。神は神なるがゆえに、いっさい万事をみ心のままになさりつつあると信ずるのである。自分の欠点や、過失さえも、我が神は、み心のままに支配して、万事をよきようになしたもうと信ずるのである。そこに、不動の安心が生じ、絶大の力が生ずる。
愛されている幸せ
ルカ19:1~10
 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 人間、誰も自分を愛してくれない、誰も自分を必要としてくれないことほど、辛く、淋しいことはない。
 人間には、たった一人でもいいから、本気で愛してくれるお方が必要です。
 イエス様だけが、本気で愛してくれました。

〈ちょっと一言〉           

 「安易な生活の為に祈るより、強い人となるように祈りなさい。あなたの能力に相当する仕事を、と祈ってはならない。あなたの仕事に相当する能力をと祈りなさい。
 そうすれば、あなたのする仕事は奇蹟にならないがあなた自身が奇蹟になる。」 フイリプス ブルックス
神を知る
詩篇121
私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、
あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、
まどろむこともなく、眠ることもない。

主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことがない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。 

 歴史を見ると正義なる神を知る。
 教会とクリスチャンを見ると愛なる神を知る。
 聖書と良心を見ると神を知る。
 自然を見ると偉大なる創造者を見る。   

〈ちょっと一言〉

 聖書の示す世の終末の前兆が、全世界の世相を見る時にはっきりと表れています。すぐにも、主が空中再臨されるような現状です。
 わたしたちは、うかうかと信仰生活をしていて、この世に取り残されるようないい加減な信者でないように、今、おのが魂を省みる時ではないでしょうか。
絶望から希望へ
ヨハネ9:1~7
 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 不自由だけど不幸ではないと言った障害児を持つ親の言葉が胸を打つ。
 人間にとっての最大の不幸は、神の愛を知らず、永遠の命を持っていないということだと思う。三重苦の障害を持つヘレン ケラーが、「太陽が見えるか見えないかは問題ではありません。大切なことは、心に光を持っているかどうかということです。」と言っています。

〈ちょっと一言〉

 イエス様は「私が来たのは、罪人を招く為に来たのです」と言われている。だから、罪人のままイエス様を信じる者は、救われる。
 救われてから、私は、徹底的に罪を悔い改めた。それが、信仰生活を確信あるものにしてくれる助けとなった。
 罪が許されたという平安がない人は、一度、思い出す限りの罪を告白してみては、いかがでしょうか。
愛は計算しない
ヨハネ12:1
 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。

 マルタは、神の前に自分をよく知り、自分の賜物をよく活かしている忠実さがあり、ラザロは、自我に死に、キリストに活かされたが故に、神に用いられ、マリヤは、神の愛を知って、自分のすべてを捧げずにはおれなかった、本物の愛と信仰を見る。

 《ちょっと一言》

 家が大切ではなく、家にいる家族が大切であり、仕事を成功させることが大切ではなく、どういう仕事をしているかが大切であり、トップになることが大切でなく、なくてはならない存在になることが大切です。
Copyright © 人生と聖書. all rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。