スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
無形のもの
マタイ19:16~22
 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠の命を得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

 私の愚かさに、何時も有形の物を、値づもってきたがゆえに、無形のものまで値づもってしまう浅はかさがある。
 愛とか真心とか、そういう無形のものは、値がつけられないものなのに………。
 無形のものを見る目をもちたいものだ。

《ちょっと一言》 

 一本の鉛筆を見て思う。
 真新しい鉛筆を買ってきて、鉛筆立てに飾って置くだけでは鉛筆の意味をなさない。刃物で削られて初めて鉛筆として役に立つ。
 それと同じように、わたしたちも自己保全に努めていては無用の長物になる。神の刃物によって研がれて人様に、使っていただこう。使われることに文句は決して言うまい。そんな、神の鉛筆でありたい。
スポンサーサイト
インマヌエル
マタイ1:23
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 我々クリスチャンの信仰の力強さは、神が我等と共にいてくださる、ということだと思う。
 すべてを支配しておられる神が、そばにいてくださるならば、何も怖れることはないのです。

《ちょっと一言》

 トンネルの中で、車のスモールランプさえつけないで走る車がある。邪魔くさいのだろうが、あの姿に典型的な自己中心的な思いがあると思う。
 相手のことを考える気遣いが、邪魔くさいという思いに勝って、ランプがついてないと走りにくいだろうなと思い、ランプをつける行動になると思う。こんなふうなことが、日常生活の中で、一杯あるのではないでしょうか。
あなたは私のもの
イザヤ43:1
だが、今、ヤコブよ。
あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。
イスラエルよ。
あなたを形造った方、主はこう仰せられる。
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。
私はあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのもの。

 あなたは私のものと言う言葉の中に、病める時もなお愛してくれる夫婦の愛情に似た真実な意味があると思う。
 二つ目は、すべての責任を神様が持って下さるという意味もある。
 三つ目は、神様の宝であるという意味もある。
 そして、最後に神様がわたしたちのものだともおっしゃっておられる素晴らしいみことばです。

《ちょっと一言》   

 クモは、一心にクモの巣を張りめぐらして、獲物を捕らえる。私も、一心になって神経を張りめぐらして神のみ言葉を、人の言葉を聞きたいと思う。
 そうしたら、もう少しましな心になれるのではないだろうか。 
平安があるように
ヨハネ20:19~21
 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸が閉めてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

 イエス様は、世を去る前も、復活された後も、最初に言われた言葉が、あなたがたに平安があるように、でした。この平安は、世が与える平安と違って、イエス様の持っておられた平安です。ちよっとしたことでも、心騒がすわたしたちですが、善にして善にいます神様を信頼して、日々、上を見上げて生きてゆきましょう。

《ちょっと一言》

 ある人が、「目に見えることにさえ感謝できない心は、目に見えないものがわかるはずがない」とおっしゃった。
 そして、「愛のないものに神はわからない」とも言われた。
 神が、もう一つわからないと言う心は、自分の弱さ、罪深さを知っていないからではないだろうか。目に見えないものを見る目を養いたい。
民よ、どんな時にも
第2列王記4:1~7
 預言者のともがらの妻のひとりが、エリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持ってくる器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持ってきなさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

 すべての人に悩みが有り、逆境がある。そんな時に、頼るべき方があり、避け所を持っている人は幸いです。
 主に信頼する者は、決して失望させられることはない。
 ひとりごを賜わった神をどんな時にも信頼して生きましょう。

《ちょっと一言》

 乾けるパンの為に祈り、孤独で泣いた人でないと、人の心の機微が理解できない。とある本に書いてあった。飢えと孤独は、人生で一番苦しい人間の試練の場だと思う。しかし、そこにも主のみ跡を見る。クリスチャンよ、そこに慰めを得よ。
生き方
第一コリント13:1~7
 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

 聖書は、肝心なことは、目に見えないということを我等に教えてくださっている。わたしたちは、表面的なことに惑わされては、生き方を誤る。見えないものを真とし、見えないものを見る目を持って生きてゆきたいものです。

《ちょっと一言》
 ある人が、「蒔かず、刈らず、倉に収めることもしない鳥でさえ、神は豊かに養ってくださるけれど、その鳥にもするべきことがある。 ただ口をポカンと開けて、『神が与えて下さるから』と、待っていても、空腹は満たされない。鳥は、エサを捜しに行く努力をしなくてはならない。同じように、神がしてくださることと、人のすべきことがある」と言われた。
本当です
ローマ8:31
 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

 聖書の中に、うそと思うほど信じられない本当の神の思いが記されています。その「本当です」の一つ目は、「神が私たちの味方です」ということです。父なる神は、主イエスのゆえに、いつでも私たちの味方となって守って下さいます。
 二つ目は、「神の目にはあなたは高価で尊い」ということです。我々はまわりから「あなたはダメなひとね」「へたね」「弱いね」と言われ自身喪失しています。けれど、神は、最高の評価をくれています。
 三つ目は、「あなたは、天国の民のメンバーとして、神に名指しで選ばれた存在です。」

ヨハネ15:16
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

野球の世界一を決める王ジャパンに選ばれた選手どころの栄誉ではありません。朽ちない御国を受け継ぐメンバーに選ばれたのです。これらのことを胸に刻み付けておきましょう。
クリスマスヘの期待
ルカ2:36~38
また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代の後七年間、夫とともに住み、その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。

 わたしたちは、日頃、救い主への関心より、ファッションとか食べ物のこととか、生活のこととかに、より深い関心を示しているように思う。しかし、アンナは、何よりもまさって、救い主を待ち望んでいた。だからこそ、救い主にお目にかかれる栄誉を得たのです。

《ちよっと一言》

 悲しみを味わった人こそ、悲しみを理解できる。そして、悲しんでいる人を慰めることができる。
 今、悲しんでいる人よ……。イエス様を見上げてください。なぜなら、イエス様は悲しみの人で、悩みを知れり……のお方ですから。
敵は本能寺にあり
ヘブル12 :5~11
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。
「わが子よ。
主の懲らしめを軽んじてはならない。
主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、
受け入れるすべての子に、
むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

 自我が強いということが、すべての災いの種である。いじけたり、開き直ったり、言い訳したり、反発心、我がままの心が問題である。
 この自我城を崩す為に、神は懲らしめを与えられる。それは我々の益の為である。

《ちょっと一言》

 「死ぬことなしに生きえない。捨てることなしに得られない。これが信仰の真理である。」と 榎本先生は言われたが、死ぬとは、神を第一とし神を愛していくこと、捨てるとは、自分の思い、自分の主張であると思う。


 楽しき心は、すなわち、私を離れた心   八木 重吉 
哀歌3:22

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
主のあわれみは尽きないからだ。

 
 自分の罪のゆえに、民に災いが下った時、ダビデは自分の過ちを許してもらいたいと、費用をかけて、主に、幡祭を捧げた。私も、自分の罪を謙虚に認め、償いの人生を送りたい。

《ちょっと一言》 

 神は、わたしたちが修道院にたてこもって信仰生活を守ることを、願っておられない。むしろ、積極的に隣人を助けることによる信仰生活に意味があることを、教えておられる。その信仰生活の要が、主の十字架に対する思い、有難い、すみません、という表裏一体の思いから表れてくるものではないでしょうか。
神の言葉を無にする偽善的形式主義
マタイ15:1~9
 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。神は『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしるものは死刑に処せられる」と言われたのです。それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、その物をもって父や母を尊んではならない』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。
『この民は、口先ではわたしを敬うが、
その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。
人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」

 神の愛の真意を忘れて、自分の考えを正しいとして生きる信仰生活は、神の言葉を空文とする。
 キリスト教は、愛の宗教であることを、肝に命じておきたい。

《ちょっと一言》

 意識しないで生きていることが、相手を不愉快にしていることが多い。愛は、常に意識して生きるところに生れるということを、教えられた。
人生最大の問題
マタイ16:13~17
 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は、人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者の一人だとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えていった。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

 わたしたちが、イエス様を主として崇めるか、ただの偉人としてみるかが、最大の問題であると私は思う。
 なぜなら、その決定が、わたしたちの永遠を定めるからであると、聖書が告げているからである。

《ちょっと一言》

 人は、いつも神の前に意識して生きていないと、イスカリオテのユダになる可能性を秘めている。自分の内に深く巣くう反抗心、いじけ、開き直り、自己愛を悲しく思う。
信仰の働き
Iテサロニケ1:1~3
 パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。
 私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。

 信仰は、神様の側から現実を見て判断してゆくことで、聖書の言葉にしがみ付いて行動する働きをいう。アブラハムの生涯から、信仰は、働かせるものだということを学んだ。

《ちょっと一言》

 ある友に「この本、試練のことばかり書いてあるなあ」と、いささか、うんざりするよぅな口調で言った時。
 その友は、『人間は、試練がなかったら神様を求めないでしょう。けれど、試練に遭わない人なんて、この世にいないでしょう。だから、試練に遭っている人を慰めるこの本は、もっとも良き本だとおもうわ」…・‥と。
 ………なるほど。
愛は労苦するもの
第1テサロニケ1:3
絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。

 本物の愛は、行ないによって裏打ちされる。行ないの伴わない愛は、愛とはいえない。神は、わたしたちを愛している証拠として、神のひとりごを下さった。本当の愛は、痛みがともなっている。 
 そして、再臨への希望の実現に至るまで、わたしたちに必要なものは、忍耐です。

《ちょっと一言》

 イエス様は、いつも真実を見抜く目を持っておられた。それは、イエス様が無欲で、人を怖れなかったからだと三浦綾子さんが、書いておられた。
 無欲に徹するだけでも、なかなか大変だけれども、今年は、これに徹してみようかと思っている。
神なき人生は空しい
使徒16:31
ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。

 神のない人生は望みのない人生だと思います。人間の生存じたい、無意味に生れ無意味に死んでゆく。これほど人間として、悲しくて、空しいことはないのではないでしょうか。
 あなたの人生に、神を信じる心を迎えたなら、どんな時にも望みを持って生きられるのですね。
新しい世界
マルコ9:7
そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。

 世の中には色々な声が聞こえてくる。しかし、神がイエスを指し示して、これに聞けと言われた。イエスに聞いて従う人は、全く新しい恵みの世界に生きることができる。
 本当に愛し、許し、仕え合う世界に生きる恵みに浴せる。

《ちょっと一言》

 神がわたしたちを慰めたもうのは、わたしたちが楽しくなるためではなく、他人を慰める者とする為である。 ジョエット博士
 人は、憂いた人ほど優しくなれる。
神は何でも知っておられる
ヨハネ5:1~9
 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でべテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
 ところが、その日は安息日であった。

 エルサレムの近くに、ベテスダという池があります。そこに大勢の、痛みを抱えた人々が居場所をなくして、伏せっていたわけです。これらの人々の中でも最悪の病人、38年間もの長い間病気で苦しんで、今なお、その痛みの中にいた人がイエスさまの救いをいただく物語です。
 この人は、信仰を持っていませんでした。イエス様のことも知りませんでした。 しかし、主イエスは、この人のすべてを何もかもご存知で、一方的に苦しみから解放され救われたのです。
 人は、自分の苦しみや寂しさをなかなかわかってくれません。けれども、あなたを造られた主は、こういわれます「わかっています。あなたの気持ち」……と。けれど、そこから立ち上がり、歩みなさいとも言われています。
希望の門
ホセア2:15
わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、
アコルの谷を望みの門としよう。
彼女が若かった日のように、
彼女がエジプトの国から
上って来たときのように、
彼女はその所で答えよう。

 アコルの谷を望みの門とすると約束されています。アコルの谷は、災いの象徴です。死は、人類にとって、最大の災いです。その災いの谷を、神は希望の門にかえて下さるのです。
 ここに人類の希望があります。死を恐れる必要がない。死を忌み嫌うことがない。むしろ、確かな祝福の場所にいく門であるというのです。
 ご存知の通り、なんの罪も汚れもない神の子のイエスさまが、罪人の罪を全部背負い、のろいのシンボルである十字架にかけられて死んだからです。このお方の死により死という忌むべきものから解放され、永遠の命に生きるものになったのです。聖書に、聖徒の死は、神の前に尊いと言われているように、主にある者には、死は天国への凱旋門なのです。
親の心得
創世記25:24~28
出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。
 この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。

 子供は、親の所有物ではなく、神から依託されたものであるという認識から、本当の子育てが始まる。
 次に、神のみ旨に沿って、子供を育てること。
 そして、一番大事なことは、すべての物を造られた創造者である神を畏れることを、教えることである。

《ちよっと一言》

 「人生にとって、人の目に見えることより、人の目には見えない根の生活が大切だと思います。人生を支えるのは、葉でも花でもなく根です。人生の命を育てるのも根です。根さえしっかりしていれば、嵐にやられ、霜にやられても、また、命を吹き返すことができる。神こそ、わたしたちの人生の根を下ろすべき命の泉です。」
と、ある本に書いてあった。つくづく、そう思う。お互い根の生活を大事にしてゆきましょう。
ローマ15:1
 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。

 わたしたち一人一人は、神から使命を頂いている。誰一人生きていて無駄な人はいないのです。もしあなたが、才能に恵まれ、財に恵まれ、他の力に恵まれているなら、それは、弱い人の為、ない人の為に神が、あなたに与えられた物ですから、強い人は、弱い人の弱さを担って行きましょう。

《ちょっと一言》 

 イエス様は、聞く事柄に注意しなさいと、言われているが、わたしたちは、一体どういう話題に、関心を示しているだろうか。たとえば、テレビなどで、漫才とか、内容のないマンガとか、そういう番組ばかりを見ていると、わたしたちの人間性は、そういうものに影響されて、軽薄な人間となってゆくのではないでしょうか。
 しかし、テレビでも中には、心がジィーンとくる感動するドラマとか、宗教番組もある。そういう話題から、多くを教えられるのではないだろうか。
まことに、あなたがたに告げます
マタイ18:1~4
 そのとき、弟子たちがイエスの所に来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

 神は、わたしたちが素直な心、信じやすい心を持つようになることを求めておられる。自分の思いで一杯の時、人は他のことが入ってこないからだ。
 神の言葉が素直に聞けないときの心は、自分の中にある自尊心、経験、能力、などが邪魔をしている。だから、常に神の方を信頼する心が大切である。

《ちょっと一言》

 橋本 巽 先生が、遺言的な言葉として、「愛することも難しいが、愛されることも難しい」と言われたと、ある人からお聞きしたが、さすが、素晴らしい牧師であるだけに、大変、重みと深みのある言葉であると思った。
 愛されることは、謙虚な心を持っていないと難しいことだと思います。
豊かに実を結ぶ為に
ヨハネ15:1~8
 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子になることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

 神は、わたしたちの人生を素晴らしいものにする目的で、試練を与えられる。その厳しい悩みも愛なる神が与えられたものだと知る時、その試練を自己訓練の時と覚えて、乗り越えたいものです。

《ちょっと一言》

 ある本に、「わたしたちは、老人に伝道してその難しさを痛感する。老人になってからでは困難なのだ。若い日に、造り主を覚えさせること、これこそ両親が、我子に贈る最大の贈物である。」と書いてあったが、本当にそう思う。
 子は親の後ろ姿を見て育つというから自分に厳しくお互い生きたいものですね。
母の願い
箴言31:1~9、30
 マサの王レムエルが母から受けた戒めのことば。
私の子よ、何を言おうか。
私の胎の子よ、何を言おうか。
私の誓願の子よ、何を言おうか。
あなたの力を女に費やすな。
あなたの生き方を
王たちを消し去るものにゆだねるな。
レムエルよ。
酒を飲むことは王のすることではない。
王のすることではない。
「強い酒はどこだ」とは君子の言うことではない。
酒を飲んで勅令を忘れ、
すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。
強い酒は滅びようとしている者に与え、
ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。
彼はそれを飲んで自分の貧しさを忘れ、
自分の苦しみをもう思い出さないだろう。
あなたは口のきけない者のために、
また、すべての不幸な人の訴えのために、
口を開け。
口を開いて、正しくさばき、
悩んでいる人や貧しい者の権利を守れ。

麗しさはいつわり。
美しさはむなしい。
しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。

 母の我等への願いは、弱い者の立場に立って自分の人生を消耗してゆく、我子であってほしいということと、外面的な華やかさに憧れるのではなくて、心の深い所から、主を畏れる人になってほしいという願いである。

《ちょっと一言》

 「自分に、してほしいことだけは主張するが、人に何かをしてやることを忘れるような人間では困る。」とある本に書いてあったが、この言葉は、人の自己中心性を表わしている。このことを意識しつつ、何かさせていただきたいと奉仕の精神で生きてゆきましょう。
愛、覚えていますか
イザヤ46:3~4
わたしに聞け、
ヤコブの家と、イスラエルの家の
すべての残りの者よ。
胎内にいるときからになわれており、
生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、
わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、
わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。

 わたしたちの生活が、もし、神と人と噛み合わないとするならば、それはたぶん、神の愛とその人の愛を忘れているからではないでしょうか。
 ひとりごさえ惜しまないでお与えくださった神の愛をいつも覚えていたい。

《ちょっと一言》

 続柄と書いて、この年まで、「ぞくがら」と読むと、てっきり思い込んでいたが、本当は、「つづきがら」であるとお聞きした。読み方の間違いなら、ちょっと、自分が恥ずかしい思いをすればすむことだが、取り返しの付かない思い込みを、人に、神にしているとすれば大変だ。
 神と人に対しての評価は、くれぐれも慎重にしたいものです。
Copyright © 人生と聖書. all rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。