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我が身はごくやにありとも
創世記39:20~23
ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。

 わたしたちが神に仕えている為に、神がわたしたちを牢獄に行くことを許したもう場合には、牢獄は、わたしたちがこの世において住まえるもっとも恵まれた所である、とある本で読んだが、私もそう思っている。
 確かに、牢獄でしか味わえない恵みがあるのではないでしょうか。

《ちょっと一言》

 愛するとは信ずること・‥‥‥‥・
 感謝する心は、心が揺すぶられつづけること………
 ホントにそう思う。
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愛は裁けず
ルカ15:11~24
 またこう話された。
 「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん、私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大飢饉が起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

 神様は、わたしたち一人一人を、そのまま愛して下さっています。こんな罪深い自分が愛され、許され、受け入れられていることを知った時、人は、すべての人を愛する心に変えられます。
 愛は裁かずではなく、愛は裁けずなのですね。

《ちょっと一言》

 キリスト教は、難しくはない。ただ愛し合うことを言っている。けれど、これが一番難しいことである。人と人との間に、イエス様の十字架が立ってこそ初めて、この難しくて素晴らしい、愛し合うという世界が生れる。
 人は神様の愛を知って初めて、力強い人となれる。
使徒の働き1章4節~5節
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

 聖書を読むと、神が我々に約束をしてくれています。たくさんあります。今日は、特に3つ選びました。

(1)助け主なる聖霊をおくると約束されました。我々は、この世とサタンと戦わなければなりません。自力では太刀打ちできません。聖霊の力によらねば勝利できません。

(2)私は決してあなたを離れず、また、決してあなたを捨てないという約束です。

(3)私が命のパンです。私に来るものは決して飢えることがなく、私を信じる者はどんな時にも決して渇くことがありません。

 これらの約束により、我々は輝いて生きることができるのです。
人間らしい人
ローマ12:15
喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

 真の人間らしい人とは、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く人ではないかと思う。まさに、イエス様の心です。イエス様は、人を愛するがゆえに、神の立場を捨てて人の所まで下りて行かれました。その心を学ぶ時、人は、真の人間らしい生き方ができるのではないでしょうか。

《ちょっと一言》

「急がずば、濡れまじものを、旅人の  
   後より、晴るる野路の村雨」

 わたしたちは、短気を起こさず、性急に陥らず、静かに、神のなさることを待つ覚悟が大切である。
導きのみ手に
使徒10:9~20
 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れたものを食べたことがありません。」すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。そして、声をかけて、ペテロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっているだろうかと尋ねていた。ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」

 神様は、色々な手段を通して、我々にみ旨を教え、導こうとしています。ですから、我々は、自分の都合とか自分の気持ちとかを捨てて、神様のてだてを知る目とそれに従う意志が大切です。

《ちょっと一言》

 果物を食べたり、ご飯を食べたり、野菜を食べたりする時によく思うのは、このバナナや、リンゴや、ミカンや米が偶然にできたなんて思えない。
 人間にとって、こんなに美味しい食べ物がみじかにあるのは、偶然なんて思えない。
 すべての食べ物は、神様の愛の贈物としか考えられない。神様の物を造る動機は、常に愛であると私は知る。
 こんなことからも、神は愛と信じられる。 
ことば
コロサイ4:6
あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。

 聖書は、ことばというものに重きをおいています。神と人とをつなぐものもことばであるならば(ヨハネ1章参照―注)、人と人とをつなぐのもことばです。では聖書は、どんな言葉をつかいなさいと教えているのでしょうか。

(1)親切で塩味のきいた言葉をつかいなさい。(コロサイ4:6)

(2)溢れるばかりに感謝しなさい。(コロサイ2:6~7)
 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。

(3)人の徳を養うのに役立つ言葉をつかいなさい。(エペソ4:29)
  悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。

 ヤコブ書で、ことばで失敗をしない人はいないと断言しているように、我々、不完全な者は、数多<言葉で失敗をするものです。だからこそ、上の3つのことを心に思い浮かべながら、聖書に従いたいと、自分を制してゆきたいと思います。

(注)ヨハネ1:1
 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
神の喜びたもうもの
ホセア6:6
わたしは誠実を喜ぶが、
いけにえは喜ばない。
全焼のいけにえより、
むしろ神を知ることを喜ぶ。

1) 神は、いけにえを、そなえものを求めておられません。わたしたちの砕けた魂を求めておられます。

2) 神を知ることを求めておられます。

3) 感謝の心を持つことを喜ばれます。

 そのためには、常に十字架のイエス様を見続けていることが大切です。
御言葉への聴従
ヨハネ9:1~7
 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 この盲人は、良い結果を約束されていたわけでもなく、祝福をあげると言われていたわけでもない。
 イエス様は、この盲人に「行ってシロアムの池で洗いなさい」とだけ言われた。
 この盲人は、イエス様のお言葉だけを信じて言われたとおりにした。
 この姿勢に本物のみ言葉への聴従があると思う。

《ちょっと一言》

 相談と報告とは違う。報告は自分でこうするという意思をすでに持っていて相手に伝えることをいい、相談は、決断する前に、自分は、こう思うのだけれど、どうやろかと相手の意見を求めることである。相談のときに、報告のような、もうすでに自分で決めていることを言うのは、相手に対して失礼なことである。そういう失礼なことを私はして、叱られたので、一応、皆さんのご参考までにと思い記しておきました。
かぎ穴
 借家のかぎ穴が壊れているらしく調子が良くなく、玄関を開けて中に入るのに苦労した。
 私たちの人間関係には、思いやりという、かぎ穴が壊れていると、人の心の部屋には入れない。
 思いやる心が、人の心に入る中心のかぎなのですね。
 思いやる心とは、相手の気持ちを我がことのように考える心です。
十字架につけられたキリスト
第一コリント1:18
 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

 あの博学で、聖書知識に精通していたパウロが、上の言葉を言っていることを思うとき、パウロの心の中に、並々ならぬ決意がうかがえる。キリスト教にも根本と枝葉のことがある。キリスト教の根本は、主イエスによる愛とゆるしである。枝葉のことで争いやすい我々に対して、十字架につけられたキリストのほかは何も知るまいと決意したパウロの胸の内を知りたいと思う。

《ちょっと一言》

 私は、丸暗記は強いほうで、そんな科目は良かったけれど、数学の応用問題は、ゼロに近かった。
 人生においても、模倣の天才と言われるほど、言われたことはやる人間であるが、悲しいことに、丸暗記も、人生のほうも身についていないので、豊かな心が三日と続かない。どうしたら直るのか。良いことの一挙手一投足をじっと見て、身体で覚えることだと思う。
復活の証人ペテロ
使徒5:27~32
彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」ペテロをはじめ使徒たちは答えていった。「人に従うより、神に従うべきです。私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」

 福音書のペテロと「使徒の働き」のペテロとを比べてみるとどうしても、そのあいだに何か大きな出来事があったとしか説明できないような、大きな違いを見る。
 肉的で臆病なペテロが、霊的で大胆な人に変わっている。こんなに人を変える力は、復活したイエス様と出会ったとしか考えられない。

《ちょっと一言》

 わたしたちが、苦痛の代価を支払う用意がなけれぱ、得ることのできない祝福がある。苦痛を通らずに、そこに、達する道はない。〔ミラー博士〕
 ある本で、この言葉を読んだ日に、日課の聖書を読むと、「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストの為の苦しみをも賜ったのです」〔ピリピ1:29〕 と書いてあった。
 自分に都合の良いものだけを、下さいと祈るのは、余りにも、虫のよい話だ。 主の十字架を喜ぶ一方で、自分への十字架を拒む自分が恥ずかしい。
神の前に富む者
ルカ12:13~21
 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように、私の兄弟に話してください」と言った。すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人の命は財産にあるのではないからです。」それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」 

 この世で富んでいる者が、必ずしも神の前に富んでいる者とは限らず、この世で貧しい者が、神の前に貧しい者かといえば、そうでもない。
 神の前に富む者とは、小さな者、弱い者に対して、キリストの代わりに水一杯与える小さな親切心さえあれば、神の国に宝を積むことになり、主の恵みを受ける。

《ちょっと一言》

 母となることは易しい。しかし、母であることは難しい。同じように、父となることは易しい。しかし、父であることは難しい。
 親の後姿で、子は学ぶということを思うとき、自らが天の父なる神に従うことが大切だし、自分がでたらめな生活をしていて、子どもだけに、正直であれ、勉強せいと言っても決して聞くものではないと思う。

エペソ6:4
父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。
自己愛
ローマ13:8~10
 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

 罪の根は、自己愛です。自己愛は、我欲であり、自己防衛本能が強く、人のせいにするし、自分に対しては甘い計算をすぐしてしまうものです。
 この自己愛から解放されるためには、人の心を思いやる以外に方法がないかと思います。
 人を愛するとは、人の心を大切にすることだからです。

《ちょっと一言》

 最近、ふとこんなことを思った。私は、Aをたたいたり、けったりして傷つけているのです。しかし、Aはじっとがまんして耐えているのです。気が済んだ私は、その人を放って、歩き始めると、数人のやくざに囲まれて、私は、たたかれたり、けられたりして痛がっているのです。それを見ていたAは、最初は「少しは痛い目にあったほうが先生のためよと思っていたのです」が、しかし次の瞬間、そのやくざに身体を張って、「あんたらやめよー。そんなことしたら私がしょうちせんよー」とたんかを切ってくれているのです。私は己の人間性を深く恥じました。
賢い建築家
第1コリント3:10~11
 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

 すべての人が、さまざまの材料で人生建築をしていますが、一体何を土台として建てているのでしょうか?
 もし、お金とか、権力とか、健康とか、そういう砂のような土台に、あなたの人生建築をしているならば、すぐに、永遠不滅の神の子であるイエス・キリストという岩なるお方に土台を代えられることをお勧め致します。

《ちょっと一言》

 夏には、スイカ、モモのような水分の多い果物をくださり、冬には、ヤキイモのような体にエネルギーを与える物をくださる。
 夏には、樹が繁茂し、目陰を作り涼しくしてくれる。冬には、木の葉を落として、日の光を通しやすくしてくれる。
 そんな神の深い愛の配慮に、ただ感謝す。
人生の課題
第一コリント13:13 ・14:1
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
 愛を追い求めなさい。

 神は、私たちがいかに生きるかという人生の課題を与えてくれています。この人生の課題に隠れている聖書の教えは、「~を追い求めなさい」という奨めです。では何を追求してゆけば、満ち足りた人生となるのでしょうか。

(1)愛を追い求めていきなさい。愛を追い求める人は、人の過ちを赦す人です。主の十字架を仰いで、赦すことです。

(2)平和を追い求めてゆきなさい。平和を追い求める人は、人を受け入れる人です。主のしもべとして、平和を追い求めてゆきましょう。

(3)信仰を追い求めてゆきましょう。信仰を追い求めてゆく人は、神との交わりを大切にする人です。豊かな祝福が注がれます。
キリストに生きる
マタイ5:43~48
 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれるものを愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

 わたしたちは、キリストを語る者ではなく、キリストに生きる者でありたい。キリストに生きるとは、みことばに生きると言うことです。
 キリストに生きる人とは、神が、そのひとりごを賜わった愛に感動して、自分を捧げている人です。わたしたちも、生活のはしばしに、みことばによって、活かされる者になりましょう。

《ちょっと一言》

 最近、自然を見ることを忘れていた自分を発見し、これはいかんと思った。自然を見ることが少なくなったということは、心にゆとりがないということだ。ゆとりがないということは、イライラして感謝の心を忘れることになる。
 自然は、第2の聖書だと言われている。努めて、神の造られた美しい花々、山々、星々、海などの自然を見たいものですね。
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