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神様ってどんな方?
マタイ21 :33~40
 もう1つのたとえを聞きなさい。
 ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。そこでもう1度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、息子を遣わした。すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。 この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」

 神様ってどんな方でしょう? 

(1)なんといっても愛に満ちた方です。この主人は、神の比喩です。
あくどい農夫たちにかかわらず、いくどもいくどもゆるし、関係をたもとうとしておられます。最後は、最愛のひとり子を送られました。

(2)真実なお方です。第ニテモテ2:13・申命記32章

第ニテモテ2:13
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。

申命記32:4
主は岩。主のみわざは完全。
まことに、主の道はみな正しい。
主は真実の神で、偽りがなく、
正しい方、直ぐな方である。

この偽ることのできない方の約束、聖書のことばは確かです。

(3)まことにいつくしみ深い方です。詩篇を読むと、この「いつくしみ深い」という言葉が目に付きます。主イエスは、ご自分にそむいた弟子のユダ、ペテロに慈しみのまなざしをむけられています。今を生きる我らのうえにも…
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神が望んでおられること
1テサロニケ5:16~18
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 クリスチャンの特徴の第一は喜びである。罪が赦されたことは主のお陰で、いつも喜んでいられる。
 第二の特徴は、聖霊の助けにより絶えず祈りの生活ができる。
 第三の特徴は、惜しむことなく我々のために御子をお与えくださった愛なる方だから、どんなことも感謝できると思う。「主にあって」が要です。

〈ちょっと一言〉

 今、私は「アンクル トムズ キャビン」という本をお借りして読んでいる。この本が、あのアメリカの汚点であった奴隷の解放のために大変な役割を果たしたことを、アブラハム・リンカーンがこの本の著作者に言っている。
 いい本に出会い、立派な人に出会うことは幸福である。この本を読んで、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉を思い出した。
 そして、たとい真実が通用しない世の中のように見えても、権力に圧迫されても、この著作者のように、真実を叫び続ける声となりたいものですね。
クリスチャン
マルコ1:1~18
 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
 預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、
 あなたの道を整えさせよう。
 荒野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を用意し、
 主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを,解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
 そのころ,イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。
 ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

 クリスチャンの持つべきもの。

1)研ぎ澄まされた良心

2)はっきりした使命感

3)確かなる価値観

1)のためには徹底した悔い改めが必要。

2)は、人の心をキリストに導く努め。

3)キリストには代えられない。
おごる平家久しからず
第1ペテロ5:5~6
同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

 私たちは常に自分を正しいと思い込んでいる。そういう自信が過剰となって傲慢な態度となり、神に敵対することとなり、自ら滅びを招くことになる。
 私たちは、相対的な中で生きているのだから、絶対的な自信を持って言わないほうが良いと思う。自分に自信がないほうが謙虚に歩めると思う。

〈ちょっと一言〉

 「しなくてはならない善行を20指示することは容易だが、それを実行しようとする20人の1人となることは難しい」 シェークスピア

 お互い、小忠(小事に忠実である)でありたいですね。
見よ 神の子羊
ヨハネ1:29
 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

 昔、人の罪が赦される道として、しみも傷もない子羊が全焼のいけにえとして捧げられた。
 神のひとり子であるイエス様は、我々の罪を赦すために、神の子羊として、十字架にかかって死なれた。
 キリストの十字架の死に神の私たちへの愛が示されているのです。

〈ちょっと一言〉

 愛するということは、信じているということです。信じるということは愛することです。愛するということと信じているということは正比例します。
 信じられなくなってくると、その人との間柄は、壊れてゆくと思います。不信感ほど、人間関係を壊す苦き根はないと思います。三浦綾子さんも言われていましたが、愛すること信じることが、人として一番大切なことだと思います。愛してやまず、信じて動かず。これを切に思う今日この頃です。
御覧になる方
創世記16:3~12
アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れてきて、夫アブラムに妻として与えた。彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
 また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数え切れないほどになる。」さらに、主の使いは彼女に言った。
「見よ。あなたはみごもっている。
男の子を産もうとしている。
その子をイシュマエルと名づけなさい。
主があなたの苦しみを聞き入れたから。
彼は野生のろばのような人となり、
その手は、すべての人に逆らい、
すべての人の手も、彼に逆らう。
彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」

1、神様は祈りを聞いて下さる方。
   ハガルのような罪深い者の祈りをも…
2、神様は何時も見ておられる方。
3、神様は今も生きておられる方。

《ちょっと一言》

 マザー・テレサは「人間の悲惨さは、貧乏で病気にかかって死んでいくということではない。
 この地上で誰にも必要とされていない、私なんて何の意味もない…と思いながら死んでいくことである。」と言われた。
 けれど、神はあなたを愛され必要とされて、この世に命を与えられた。
すぱらしい人生へのスタート
ルカ19:1~10
 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 すばらしい人生へのスタートは、「ザアカイ」と主イエスが名前を呼ばれたところから始まりました。ザアカイは、イエスを知りませんでしたが、イエスは、ザアカイの何もかもご存知でした。名前を呼ぶということは、造り主と造られた者の関係を言っています。

イザヤ43:1~2
だが、今、ヤコブよ。
あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。
イスラエルよ。
あなたを形造った方、主はこう仰せられる。
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。
わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのもの。
あなたが水の中を過ぎるときも、
わたしはあなたとともにおり、
川を渡るときも、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、あなたは焼かれず、
炎はあなたに燃えつかない。

 次に、「急いで降りてきなさい。」といわれています。これは、救いというものは、今受け止めたら救われるということを暗示しています。それを、また、と引き伸ばせば、せっかくのチャンスを失うのです。最後は、「あなたの家に泊まることにしてあるから」です。ザアカイは、この町の嫌われ者です。しかし、主は親しい友のように、泊まりますといっています。ザアカイは、嬉しくて、今まで執着していたお金から解放され、主につく者となりました。
悩んでいるあなたへ
ルカ4:1~13
 さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」 また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」 また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです。」するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」
 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。

 私たちは、だれしも悩みながら生きるものです。ヨブも「人は生まれると苦しみにあう、火花が上に飛ぶように」と嘆いています。このように悩み多い人生の中で、どこに希望を見出せるのでしょうか。
 主イエスは「あなた方は世にあっては悩み多し、しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」と言われました。主は、試練の荒野で勝利を得られました。この主の勝利の方法を学び、我らも勝利を得たいと思います。

(1)神の言葉によって勝利されました。いかなるときも神の言葉に従うのです。

(2)聖霊の助けによって勝利を得られます。試みの荒野にも、御霊が主とともにおられたと記しています。荒野に導かれるのも御霊ならば、孤独の荒野、厳しい状況の荒野にも主の御霊がおられる事を覚えましょう。
永遠の求道者
IIコリント12章1~13

 

無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は14年前に―肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、―第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、―それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、―パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に1つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
  私は愚か者になりました。あなたがたが無理に私をそうしたのです。私は当然あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。たとい私は取るに足りない者であっても、私はあの大使徒たちにどのような点でも劣ることはありませんでした。使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間で行われた、しるしと不思議と力あるわざです。あなたがたが他の諸教会より劣っている点は何でしょうか。それは、私のほうであなたがたには負担をかけなかったことだけです。この不正については、どうか、赦してください。


 ものを考えないところに、恥を恥ともおもわない浅はかさがある。ものを考えるとは、己のたらなさを知るということである。パウロは、「私は、すでに得たのでもなく、ただ捕らえようとして、追求しているのです。」と言っている。わたしたちも、真理の道、愛の道を求め続けるひたむきな者でありたいですね。

《ちょっと一言》

 忘れること………・・…… 人の失敗 
 忘れてはいけないこと……………… 自分の失敗
 これを忘れると、高慢な人になり、これを守ると、謙虚な人になる。

IIコリント8:1~5
 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

 24~25歳の女子青年にしても、ダミエン神父にしても、神に献身していることを思うとき、己は、どれほど、キリストの愛が迫っているだろうかと心もとない。
 ひもつきでもなく、条件つきでもなく、心から喜んで、神に生涯を献身したいものですね。

《ちょっと一言》

 最近、大きな試練にあっている親子から、電話をいただいた。
 目の前が真っ暗になっているときに、この教会で歌っている賛美を聞いたところ、そのうちの二曲が、今は亡き母親の愛唱歌であり、二人で声を合わせて歌っていたら、大変なぐさめられて、希望が出てきた・・・ということでしたが、それを聞きながら、確かに賛美は力である、人生を逆転させる力を持っているということを知った。

 主をほめよ!!
みぞを掘れ
使徒2:1~4
 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 約2000年前、キリストの弟子たちは、祈っていたとき、約束の聖霊に満たされた。
 祈っているときに、神のみわざがすすめられてゆく。みぞを掘るということは、神の言葉にへりくだるということであり、そして、祈る生活であると思っている。祈り深い人に、聖霊は臨んで力を与えるのです。

《ちょっと一言》

 榎本先生が、結婚する前に奥さんに出した手紙の中で、「私をいつも十字架に追いやる妻であってほしい」と書いているそうである。
 何とまあすごい先生だと感心するとともに、己が恥ずかしくなった。私は一生かかっても、こういうキリストの愛の戦士の言葉は言えそうもない気がする。
 知らず知らずのうちに、自分ではなく、他者を十字架に追いやっている我の強い不肖の牧師である。
たといそうでなくても
ヨハネ11:1~17
 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお2日とどまられた。その後、イエスは、「もう1度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」
 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。

 人生が、人の計画通りにならない、思い通りにならないとき、神に対する不信感に捕らわれる。
 けれど、神は、常に最善の思いをもって事を成してくださることを知るとき、たとえ、自分の思い通りにならなくても、神の最善を信じ続ける者、神を賛美する者でありたい。

《ちょっと一言》

 私は怠け者で、学校の勉強の予習復習はしなかった。いつも、その場限りの学びで、2~3日もすれば忘れてしまっていた。
 だから、成績が伸びなかったのも無理はない。
 そして、人生のことにおいても予習復習はさぼっているので、その場、その場の付け焼刃で、つぎはぎだらけの日々であったように思う。
 今、行う前に考え、行った後に考える習慣をもつように努力している。そうすることが、少しでも人格を豊かにしてくれるのではないかと、期待しているからである。
 クロムエルが、息子のリチャードの教育方針を立てていた時に「息子には少しでも歴史を学ばせたい」と言った。
 我々も失望する時、過去を振り返って、もう一度勇気を振るい起こしたいものです。歴史の主なる神は昔行なったことを再び行なうことができるからです。
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