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おきあがりこぼし
詩篇13

主よ。いつまでですか。
あなたは私を永久にお忘れになるのですか。
いつまで私は自分のたましいのうちで
思い計らなければならないのでしょう。
私の心には、一日中、悲しみがあります。
いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。

私に目を注ぎ、私に答えてください。
私の神、主よ。私の目を輝かせてください。
私が死の眠りにつかないように。
また私の敵が、「おれは彼に勝った」
と言わないように。
私がよろめいた、と言って私の仇が喜ばないように。

私はあなたの恵みに拠り頼みました。
私の心はあなたの救いを喜びます。
私は主に歌を歌います。
主が私を豊かにあしらわれたゆえ。


 人生の嵐が吹いても、クリスチャンには、主の恵みと救いが、常に重心としてあるので、おきあがりこぼしのように、倒されても、また起き上がるのですね。
 どんな場合にも、ダビデのように、主よ、私に目を注いでください!と祈りましょう。その時、嘆きは変わりて、歌となるのですから。

〈ちょっと一言〉

 悪意に取る人に、どんなに真実を尽くして語ったとしても空虚さしか残らないことが多い。そんなときの唯一の慰めは、「神はご存知だ」、「主は知っていてくださる」ということだと思う。
 ただ、私たちは、常に善意に受けとめてゆく心でありたいですね。
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永遠への旅人
第2コリント4:18

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。


 私たちは、見えないものを見る目を持つことが大切です。そのために、

1)見たり触れたりすることのできない世界こそ、まことの世界であるということを認識したい。

2)現象面を見る視点から原型を見る視点に変えること。

3)人にとって真に大切なことは魂の癒しであること。

〈ちょっと一言〉

 「年若い両親のかわいい幼児が水槽に落ちて溺れ死んだ。両親にとって言語に絶する打撃である。これでも神は愛なりと言えるであろうか。そうだ、幼児のゆえに神は愛なりと知ったのではなく、キリストのゆえに神は愛なりと知ったのだ。神はその愛するひとりごを十字架に給うた。それによって我らは、神は愛なりと知ったのである。この信仰にしがみついていれば、掌中の珠を急に召された悲嘆すら、人生におけるすべての経験と関連しあって我が益となることを知るのである。若き両親よ、このことによって慰めと希望を与えられよ。」矢内原忠雄「嘉信の一節 その人は慰められん」より
涙を越えて
詩篇121
私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、
あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、
まどろむこともなく、眠ることもない。

主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことがない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。 

 神は困難を通して3つの事を教えられる。

1)この世のものは皆過ぎてゆく。だから、朽ちない天国を慕わせる。

2)品性が練られて深みのある人につくられてゆく。

3)神がさらに身近になるために。

 私たちの助けはどこから来るのだろうか。天地を造られた主から来るのです。

〈ちょっと一言〉

 あなたは何を人生で大切にしておられますか。物。力。名誉。金。それとも心ですか。以前、私は、お金が何より大切で、それを一番求めていました。けれど、その結果、私の胸の中に残ったのは、むなしいという一語でした。
 それ以来、心を大切にして生きていっています。それが、今では本当に良かったと思っています。
エペソ6:1~3
 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。

 ひとり子さえ惜しまないで我々に与えてくださった神が母を与えてくださったことを知るときに、我々は、己が母を敬い大切にするのは当然のことだと思う。そして、何よりの親孝行は、天国への救いに導くことである。
 そして、信仰を持つ母の子なら、その信仰を受け継ぐことが親孝行である。

〈ちょっと一言〉

 空き地の雑草は、すぐ成長して私を悩まし、不愉快にさせる。同じように、私の心の雑草も、どんどん伸びて、人を不愉快にしている。
 その雑草の中に、小さな野の花が咲いている。私の心の中に、可愛い野の花が一杯咲けばよいのに・・・
 そうだったら、私も、生きていてよかったと思うだろう。

 主よ。私の魂をいやしてください。
 私の罪を赦してください。
墓からの復活
マルコ16:1~8
 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中に入ったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 全ての人は、必ず死んでゆくが、ただ一人、キリストは死んで3日目に栄光の身体で復活された。我々、主を信じる者も、終わりの日に栄光の身体を与えられて復活させられるのである。
 ここに希望がある。そして、復活信仰とは、今の状態が墓場のように望みがないように思えても、神は、そこから救い出してくださるに違いないと信じて望みを持つことである。

〈ちょっと一言〉

 律法を守ることと、規律を守ることが目的となって、人を殺すことになってしまうことがある。文字は人を殺し、霊は人を生かすということ、また、安息日のために人があるのではなく、人のために安息日があるのですと言われた主のお心を察するとき、思いやりの心で接せられるのではと反省している。
生き方のお手本
ヨハネ13:14~15
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

 救い主イエス様は、我々にこう生きなさいと生き方の手本を残してくださっています。

(1)足を洗いなさい。足を洗うというのは、しもべのする仕事です。主イエスは、弟子たちの足を洗いました。私たちも、人に仕えてゆく時祝福を受けます。

(2)不当な苦しみをこらえなさい。

第一ペテロ2:19~21
人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども,善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。

 主イエスは、罪なきお方です。その方が、極悪人のように十字架に付けられました。ののしられても、おどかされても、その不当な苦しみを忍ばれました。われらもそれに倣いたいと思います。

(3)よ<、お祈りをされています。

ルカ5:15~16
しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また,病気を直してもらいに集まって来た。しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

神様のすばらしい世界は、祈りを通して体験できます。そのすばらしさを教えるために、お祈りの手本を残してくださっています。主の足跡をたどりましょう。
本当の幸福
ルカ19:1~10
 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は,失われた人を捜して救うために来たのです。」

 全ての人が幸福を求めているが、本物の幸福を得ている人は少ない。
 幸福=お金、地位、名誉、健康、結婚、子ども、と思って、それらを求めるが、それらを得たからといって、幸福を感じるかといえば、そうではない。むなしさが埋められないのは、どうしてだろう。
 本当の幸福は、天地を造られた神の愛を知ったときに、得られるでしょう。
神様からの警告
ユダ 11節
ああ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。

 重々しいタイトルです。脅かすわけではな<、身を引き締めてもらい、ハレヤカに生きてもらいたいがためです。神からの警告の第一は、カインの道に要注意。自己中心の道です。罪人の道です。この道の行き先は、滅びです。悔い改めて神を私の神として歩みましょう。第二は、バラムの道に要注意。金銭を愛する道です。富と神とに仕える事はできません。不義の報酬を愛したバラムは、滅ぴました。第三は、コラの道に要注意。高ぶりです。民数記16章に記されています。高ぶりは、破滅に先立つ。主なる神に向かって、高慢になることは、非常に危険です。この高慢から守られるには、自分は神に生かされている命であるということを忘れないことです。
 天国にむかう道をひたすらまっすぐに歩みましょう。
一粒の麦
ヨハネ12:20~27
 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは1つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

 自我がいつも争いの原因、悩みの種ですが、聖書では、この自分を捨てなければ、豊かな実を結ぶことはできないと言われています。
 自分を捨てるためのヒントは、

1)よく心を探ることです。今しようとしていることは、欲か、愛か。

2)自分の立場と相手の立場をよく考えて良心的に行動する。

 何よりも先に、主が命を捨てられたことを覚えましょう。

〈ちょっと一言〉

 詩篇に「セラ」ということばがある。これは、振り返って反省することが大切である、ということです。私たちは、自信があると反省せず自信過剰となって、本当は正しくないのに、己が正しいと思い込んでしまっていて、相手のほうが間違っていると非難することが多くなる。
 人間、自分に自信がない方が謙虚な人柄になれると思う。
主がお入用なのです
マタイ21:1~11
 それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子ががいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。
「シオンの娘に伝えなさい。
『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
柔和で、ろばの背に乗って、
それも、荷物を通ぶろばの子に乗って。』」
そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。
「ダヒデの子にホサナ。
祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
ホサナ。いと高き所に。」
こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか」と言った。群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ」と言った。

 神の選びは、人の考えと違う。人が弟子を選ぶとき、頭のよい人、知恵のある人、力のある人を選んでしまうが、イエス様は、この世で見下されている人、取るに足らないものを、あえて選ばれて用いられている。
 自分なんか駄目だと失望している人、神は、そんなあなたを主の用なりと、世の中に引き出して用いてくださいます。

〈ちょっと一言〉

 三浦光世兄を、三浦綾子さんの講演会場の入り口で見た。「はっ」と息を呑むほどの、清らかな感じがした。まさに、聖徒だと思った。8年前と変わらない清らかさであったことにも驚いた。
 いつも、顔と顔を合わせるように、主にお会いしているから、あんなに美しい輝きがあるのだろう。それに比べて、自分の中からは、世俗のにおいがプンプンする。「主よ。私を憐れみ給え!」
心の整理整頓
マルコ8:14~21
 弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ1つしかなかった。そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」

 いつも親切で塩味の聞いた言葉を話して、相手の心を生かすためには、見たこと、聞いたことを、心の中で、常に整理整頓しておくことが大切であります。

IIコリント13:5
あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか--あなたがたがそれに不適格であれば別です。--

〈ちょっと一言〉

 感情と感動とは違う。私は喜怒哀楽が激しいから、感情的な人間であると思う。すぐ顔に出てしまう。(人間の感情は自己中心的だから、自分が気に入らないとブスッとしている。相手の気持ちを考えないで・・・)
 しかし、感動することが少ない感受性の鈍い人間だと恥ずかしく思っている。
 素晴らしいことに感動する心は、感情の問題でなく、感受性の問題だからです。
 どこから、この感受性は生まれるのか。すべてのことに真剣に生きるところから生まれると思う。
時計の針は戻らない
ヨハネ4:13~18
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が5人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」

 私たちは、過去のことでクヨクヨと後悔する者です。ああしとけぱよかったと。あんなことしなければよかったとか。この婦人も、そうであったことが察しられます。なんせ、5度も結婚しているのですから。暑い昼に水を汲みにこなければならない身の上であったからです。
 失敗を積み重ね、後悔する事の多い私たちに、何が必要でしょう。

(1)ゆるしです。神の子のイエスは、私たちを赦すために十字架にかかられました。

(2)期待です。必要とされていると知ると、生きることができます。この婦人は、赦された喜びのため、避けていた人々のところへ行き、大声で「わたしはメシヤに会いました」と伝えました。もうこそこそと生きていません。福音の力です。
真理とは何か
ヨハネ3:31~47
 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることをよく知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行うのです。」彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります.」イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分から来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理には立っていません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者はいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜ,わたしを信じないのですか。神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者ではないからです。」

 真理とは、神の言葉である聖書であり、神の言葉に根ざして生きる人が真理に生きる人であります。そして、そのような生き方こそ、真の自由人の生き方であります。
 私が真理であると言われたキリストを知れば知るほど、私たちの魂は、真理を知り、自由な心で生きることができるようになります。

〈ちょっと一言〉

 孤独はこわくないが、孤立はこわい。孤独の隣に神がいると言われているように、人は、孤独になってくると、神を認め、神の存在を強く感じ、信仰の人となってくるのですが、孤立は、神にも、人にも捨てられた姿で、まさに、どこにも支えがない地獄の姿であります。イエス様は、我々の罪の身代わりとして、十字架で死なれましたが、あの十字架のイエスの死の姿は、孤立の姿です。我々が孤立しないための神の子の深い愛の姿です。
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