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パワフルな人生
ヨシュア記5:13~15
 さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

 生きるということは、戦いです。弱肉強食の世界に生きることは、厳しいです。しかし、いくら弱くても、小さくても、安心して生きる世界があります。
 それが、今日、お話ししたいパワフルな人生です。パワフルな人生のよりどころは、何といっても万軍の主が我々の先頭に立っていてくださるという事実です。その大能の力によって、勝利ある人生がおくれるのです。
 では、その勝利の方法は、

(1) 祈りです。聖書全巻、私たちに、祈れ、祈れ、と祈りを勧めています。

(2) みことばです。

エペソ6:17
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

(3) 聖霊の力です。使徒パウロでさえ、ローマ7章で、自分がいかにみじめな敗北者であったかが記されています。しかし、ローマ8章にいたると、聖霊の力によって、圧倒的な勝利者になるのですと言っています。
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ダビデ
第1サムエル17:44~49
ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かってくるが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちを我々の手に渡される。」
 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。

 ダビデの生涯から、ダビデの人物像を私なりにとらえたことですが、

1) 神に愛される人でした。

2) 信仰の人でした。
自分に何の可能性がなくても、神の可能性に立って行動しました。

3) 詩人でした。
涙の谷を通った人だけに、人の心をうつ詩を多く残している。

〈ちょっと一言〉

 小5の岡本綾子ちゃんは、病気のゆえに天に召されたが、この子どものイエス様を信じるゆえの輝いた生活が、多くの人々に良き感化を与え、心のいやしの力となってきたそうです。綾子ちゃんは、お母さんに「病気になってよかったネエ!イエス様の救いにあずかったんだもの」と言ったそうです。この言葉を言える人はすごいなあ~と思いました。綾子ちゃんは、病気に勝っていると思いました。こんな力は、愛なる主から来るのでしょうね。
悲劇の人サウル王
第1サムエル15:17~23
 サムエルは言った。「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行ったのですか。」サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」するとサムエルは言った。
「主は主の御声に聞き従うほどに、
全焼のいけにえや、その他のいけにえを
喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
まことに、そむくことは占いの罪、
従わないことは偶像礼拝の罪だ。
あなたが主のことばを退けたので、
主もあなたを王位から退けた。」

 サウルはイスラエルの初代の王として選ばれたのですが、彼の人生は悲惨な生涯でした。彼の人生を悲しい人生にしたのは、彼の心のうちにある、

1) 傲慢  2) 貪欲  3) ねたみ

でした。
 自己中心的な我々も、日々反省したいものですね。

〈ちょっと一言〉

 私たちは相手の結果だけを見て成功者だとか失敗者だとか決めてしまいやすいが、そんなことよりその人が日々どういう努力をしているかの方が大切ではないだろうか。
 毎日一生懸命努力していても失敗することがあるのですね。それを結果だけ見て、その人を×とするのは人として間違っていると思います。
 常に過程の方を大事にしたい。
愛のマント
創世記9:21~23
ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。

 神から義人と呼ばれていたノアも長い人生の中で、失敗がありました。私たちも、よく失敗をすると思います。そのような私たちの汚い罪の身体に、キリストは血潮滴る愛のマントをかけて覆ってくださいました。
 それによって、本物の愛がわかったのですね。我々も他者に対して、かくありたいものですね。

エペソ4:32
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

〈ちょっと一言〉

 「人を自分より優れた人と思いなさい」
 相手には必ず長所がある。そこを認めてゆくとき、尊敬できるようになり人間関係がうまくゆく。ただ、聖書にそう書いてあるからと機械的に尊敬しようと思ってもギクシャクする。心からそう思えないからだ。偽善者になってしまう。
 しかし、イエスは、その人のためにも命を捨ててくださったという視点から思うと、まさにその通りなので、その人を好きになれなくても愛してゆけると思う。
神様の願い
ローマ16:1~2
 ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。

 私たちは、神様にお願い事ばかりをしています。いつも無理な願い事も聞いてくださる優しい神様です。そんな神様も、私たちに願いをお持ちであることをお伝えします。

(1)助け合いなさいという願いです。助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。

(2)愛し合いなさいという願いです。

ヨハネ13:34
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 主は、「私があなたがたを愛したように隣人を愛しなさい」と言われました。人を愛する具体的アクションは、仕えてゆくということとゆるしてゆくということです。主は、そのように我々を愛しゆるしてくださいました。我々も、その足跡にならいましょう。
よりよき人生をおくるために
ヨシュア2:1~7
 ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行って、あの地とエリコを偵察しなさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった。エリコの王に、「今、イスラエル人のある者たちが、今夜この地を探るために、入って来ました」と告げる者があったので、エリコの王はラハブのところに人をやって言った。「あなたのところに来て、あなたの家に入った者たちを連れ出しなさい。その者たちは、この地のすべてを探るために来たのだから。」ところが、この女はそのふたりの人をかくまって、こう言った。「その人たちは私のところに来ました。しかし、私はその人たちがどこから来たのか知りませんでした。その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。その人たちがどこへ行ったのか存じません。急いで彼らの後を追ってごらんなさい。追いつけるでしょう。」彼女はふたりを屋上に連れて行き、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に隠していたのである。彼らはその人たちのあとを追って、ヨルダン川の道を渡し場へ向かった。彼らがあとを追って出て行くと、門はすぐ閉じられた。

 よりよき人生をおくるために必要なものは、

(1)洞察力です。今の状況を正しく判断し、決断することが大切です。ラハブは、まことの神の力を聞きました。それをまこととし、神の側について、斥候たちをかくまいました。

(2)愛力が必要です。ラハブは遊女でした。親が生活のために自分を遊郭に売ったのかもわかりません。それでも、彼女は、家族と友人たちの救いのために、かくまった斥候たちに、救いを嘆願しています。

(3)行動力が必要です。ラハブは、これが本当だとわかったら、神につく人たちをかくまいました。言われたとおりに、窓に、救いのしるしの赤い紐を結び付けておきました。こういう姿勢が、よりよき人生につながり、救い主の家系に名を達ねる名誉を得ました。
ストレス解消法
ルカ10:38~42
 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、1つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを,取り上げてはいけません。」

 今、ストレス社会です。イライラすることが多いです。マルタの心は、イライラして、不機嫌になっています。それは、自分だけが忙しい目をし、妹が少しも手伝いをしないのがしゃくにさわっていたからです。
 そこで、聖書が教えるストレス解消法をお伝えします。

(1)人には、とんちやくしないということです。ただ自分は、神の前に神に向かって生きることに徹することです。

(2)座ると言うことです。

39節
彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

 座ると言うことは、受身です。何もしないということです。マリヤは、神の子の前に座ってみことばを聞いていました。神の造られた自然を見ること、触れることにより、ストレスが癒されます。もっといいのは、聖書に耳を傾けることです。
平安で穏やかな人生
詩篇16:8
私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、
私はゆるぐことがない。

 「知に働けば、かどがたつ。情にさおさせば、流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい」夏目漱石だけではありません、この世をいきることは、とにかくしんどい。ストレスがたまる。こんな住みにくいストレス増加時代に、穏やかに生きられたら、なんと幸いでしょうか。
 平安で穏やかに生きる。

(1)神とベルトをかけて生きることです。主よ、主よ、といつも主を仰いで生きることです。

(2)キリストこそわが命と決めて、キリストオンリーに生きることです。
イザヤ26:3
志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。

(3)よき羊飼いなる主が見守ってくださっていることを知ることです。
詩篇23:1~2
主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。

 平安は、自分でがんばって得られるものではなく、主の存在自体が、平安をもたらすのです。
人生をエンジョイしよう
詩篇118:24
これは、主が設けられた日である。
この日を楽しみ喜ぼう。

 だいたい、世の中の人は、キリスト教を固い、かたくるしい宗教のように思っています。しかし、今日の聖書の個所から、そうでないとはっきりわかります。なぜなら、この日は主が設けられた日、我らは、この日を楽しみ喜ぼうと賛美しているからです。では、どういうことを心がけてゆけば、この人のように喜び楽しむことができるのでしょうか。

(1)人と比べないで生きることです。

(2)神に生かされている命であることを忘れないでいることです。
たとえば、バッハ。彼は、神に栄光あれ、とまず楽譜に書いて、それから作曲をしました。その姿勢が、多くの人々の琴線に触れるのだと思います。我々も、いただいている神からの才能を、活用しましょう。

 このことを心がけてゆけば、内に喜びが宿るでしょう。
わたしのもの
ハガイ2:1~9
 ダリヨス王の第二年の第七の月の二十一日に、預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。「シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者とに次のように言え。あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残ったものはだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。―主の御告げ―エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。―主の御告げ―仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。―万軍の主の御告げ―あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。銀はわたしのもの。金もわたしのもの。―万軍の主の御告げ―この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。―万軍の主の御告げ―」

 天と地とを造られた方のものです、すべての被造物は。聖書で、その神ご自身が「わたしのもの」と明言されているところをお伝えします。

(1)銀も金も私のもの。やってゆけるかな?と不安を覚えた時、このみことばを握って、平安を得て下さい。その通り、必要を満たしてくださいます。

(2)あなたは、神のものと言われています。
イザヤ43:1
だが、今、ヤコブよ。
あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。
イスラエルよ。
あなたを形造った方、主はこう仰せられる。
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。
わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのもの。

 生かされている命であることを忘れないでおきましょう。

(3)教会は、神のものであると言われています。
エペソ5:25
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、(以下略)

 ご自分の命をもって贖われたもの、それが教会です。旧約の幕屋、神殿の本体が教会です。神がおられるところです。 
木はその実でわかる
マタイ7:15~23

 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また,悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』



 私たちの結ぶ実は、罪の実ですね。

1)偽善 

マタイ7:15
 

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。



2)人のせいにする

3)舌の罪

 しかし、イバラの木にバラの芽を接ぎ木すると、バラの花を咲かせる。同じように、神は、我々に、キリストを接ぎ木して愛の実を結ばせてくださる。

〈ちょっと一言〉

 ソクラテスは「ただ生きるという事実でなく、よく生きることだ」と言った。そして、生きるということは愛することである。一日一日を大切に愛することに努力した人こそ、人生を本当の意味でよく生きた人だと思う。
 好き嫌いは必ずあります。嫌いな人を好きになれと聖書は言っていません。しかし、嫌いな人を愛しなさいと教えています。感情的な私は、このことをよく混同して偽善者となっているときがよくある。キリストの愛を受けて人に接してゆくことが秘訣です。(十字架を仰げば・・・)
 
神の人エリヤ
第1列王記18:30

 エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直した。

 エリヤは、その生涯において、常に御名の崇められることを心がけた人でした。そのことのために、

1)根の生活を大切にした。

2)こわれた祭壇を建て直した。

3)心が低い人

1列王19:3~4

彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」


〈ちょっと一言〉

(自己愛)
 近頃、自分の年が55だったのか、56になったのかよく忘れる。そこで考えると、もう56だったと思い、つぎに、今年はもう57になるのかと知ると、なんだか妙に心細くなる。このまま、こんな感じで年をとってゆくのかと思うと、あせりと不安を感じる。ある老人の死・・・妻なく、子なく、金もなし、はい、サヨナラ・・・と公園のベンチで死んでいた。なんだか妙に淋しい。髪も薄くなってきているが信仰も薄くなってきているせいかナァ?? 無理にでも御言葉を心にこじ入れる私。
(ある朝の独白)
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