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サムエル
1サムエル3:19
 サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。

 サムエルという人物の特徴

1)祈りの人
自分を退ける人々のためにも、とりなす人

2)清い手の人
私利私欲のために生きず、常に神の栄光を求めた人

3)遠くを見る目を持った人
後の世代のために預言者学校を建て、人材を育成した。

〈ちょっと一言〉
 なんでも、すばらしいなあ~とあこがれることは、人を向上させる起爆剤となるが、しかし、それが、うらやましいとなると嫉妬となって、心に根深く持ってくると、陰険な人間となり、人間性を腐らせる。
 天地の差となる心の思いを、よく自分で見つめておくことが大切です。
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キリストを着なさい
コロサイ3:12~25
 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを、赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。
 妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不正を行う者は、自分が行った不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。

 何事も主に仕えるように、人に仕えることができたら、その人は、日常生活の中で、いつも、普段着としてキリストを着ている立派な人です。
 そして、心から「ありがとう」と「すみません」が言えたなら、人間関係の達人です。
 そんな人になるためには、キリストの愛を一杯受けておかなくてはなりません。

〈ちょっと一言〉
 「バラはバラの悲しみのために花となり、青き枝葉のかげに悩める」 若山牧水
 この詩を知って、はっとさせられた。バラは美の王者であると思っていたから、悲しみとか悩めるという表現を使っている詩人の胸のうちの苦悩の深さに驚いた。この詩人も人生の涙の谷を通ってきた人だと思う。私も何事も詩人の繊細な心で見つめる努力をしたい。
自己との戦い
ルカ22:39~46
 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」

 祈りというのは、自分の願望を神に押し付けることではなくて、御心を行えるように、助けを祈るのが祈りですと教えられますが、自分の心を見つめてみると、いかに自分の欲望をかなえてもらうために祈ってきたかを反省させられます。
 いかに自分の心のうちには御心を行いたくない自我が根強くあるかを知るとき、自己との戦いに勝利せずして、御心を成したまえと祈れない。我々もダビデのように、詩篇143の10節の祈りを心から捧げずにはおれないのではないでしょうか。

詩篇143:10
あなたのみこころを行うことを教えてください。
あなたこそ私の神であられますから。
あなたのいつくしみ深い霊が
平らな地に私を導いてくださるように。

〈ちょっと一言〉

 神は、男として私を、女としてあなたを、日本人として、何々家の長男として、三女としてか、貧しい家にか、裕福な家にか、ともかくも、神は、あなたや私に使命を与えて、この世に送り出してくださったのですね。
 その神の期待にこたえてゆくのが人の生き方だと思います。生きていることは、生かされていることで、生きている意味がない人は一人もいないのです。神の目には、あなたは高価で尊いのです。
クリスチャンの三本柱
ルカ10:25~37
 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたほどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすればいのちを得ます。」しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」イエスは答えて言われた。
「ある人がエルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ2つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この3人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

1)すべての人を隣人とみなす隣人愛

2)口先だけでなく、御言葉を実行する人となること

1ヨハネ3:18,19
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。

3)本当の愛は謙遜という衣を着ている。

1)はマタイ25:40がヒント

マタイ25:40
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

2)は良心の鋭さ

3)は十字架の愛と比べるとき

〈ちょっと一言〉

 弱い人の立場に立って、ものを考えるために

1)相手のことを、注意深く聞いて受け止めておくこと

2)自分が一番つらかったときのことをいつも覚えておくこと
アンテナ
使徒9:10~19
 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたので、「主よ。ここにおります」と答えた。すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちを捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。
 サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。

 神は、色々な出来事の中で、聖書の中から、あるいは、人を通して御旨を語ってくださっていると思うのです。けれど、ある人にはそれがわかって、ある人には、わからないことがあるのは、どういうことでしょうか。
 神の声が聞こえないのは、他のことで、心が一杯だからです。注意深く、神の方向に心を傾けて、アンテナを張り巡らせていると、神の御旨が伝わってくるのではないでしょうか。

〈ちょっと一言〉
 私事で恐縮だが、昔、父が丹精して作ったであろうイモを少しばかり送ってきてくれた。オーブンで温めて戴いたが、温かい舌触りとともに、一番の親不孝な己に、悲しみがこみ上げてきた。いつまでたっても、心配ばかりかける。最大の恩返しは、この福音にともにあずかることだと思っているのだが・・・

使徒16:31
 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。
はからずも
ルツ2:1~3
 ナオミには、夫の親戚で、エリメレクの一族に属するひとりの有力者がいた。その人の名はボアズであった。モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで」と言った。ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落穂を拾い集めたが、それは、はからずも、エリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。

 聖書に、「神のなさることは、みなその時にかなって美しい」とあるが、まさにそのとおりで、神は、弱さを覚えている私たちのために一秒の狂いもなく、素晴らしい愛のお取り計らいをしてくださる。
 ルツが、はからずも行って働いた所が、何と後に自分の夫となるボアズの畑であったとは・・・
 神の御摂理の素晴らしさをほめたたえる。

〈ちょっと一言〉
 それを理解していることと、それに生きていることとは違う。真理を知っていても、それに生きていなかったら、何の力ともならない。イエスが十字架にかかられたことを知っていても、それだけでは傍観者と同じで、その人に何の力にもならない。しかし、それが私の罪を赦すためだと、心で悟った人は、最大の生きる力を得たことになる。そして、その愛に生きるようになる。
福音の原点
ヨハネ3:16
 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 このヨハネ3:16の御言葉は聖書全体の要約である。これが福音である。この福音に立つ者は、救われる。

1)神が私を愛してくださっている。
2)キリストを信じる者が罪赦される。
3)神の約束された、永遠の命の保証

 これが、福音の原点です。

〈ちょっと一言〉
 1987年の泉キリスト教会の標語は、「キリストを着なさい」(ローマ13:14)でありました。
 日常生活の中で、普段着のように、キリストを着ていたいと思ったからです。
 礼拝に来ているときだけ、聖書を読んでいるときだけ、キリストを着ていては、いけないと思ったからです。
ピンチがチャンスに
ヨハネ2:1~11
 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、―しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた―彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 生活の中で、こまったな~ということがあります。カナの婚礼の最中にぶどう酒がなくなってきました。新郎新婦にとって、大ピンチ。その場に居合わせたマリアはどうしたでしょうか。ピンチがチャンスに変わります。

(1) 主に相談しました。ぶどう酒がありません、と。

詩篇50:15
苦難の日にはわたしを呼び求めよ。
わたしはあなたを助け出そう。
あなたはわたしをあがめよう。

(2) 主を待ち望み続けることです。マリヤは、主のみわざを、助けを信じて待ち続けています。

ヨハネ2:5
母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

(3) 見えるところによらないで、信仰によって歩み続けることです。
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