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アブラハム信者とロト信者
1コリント3:1~9
 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は、「私はアポロに」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

 救われている人でも、霊的な人と肉的な人に分けられます。ロトは肉的な人で、いつも欲が中心でした。その結果、周りの人々に良き感化を与えることができませんでした。
 アブラハムは霊的な人で、いつも御言葉中心で、神との交わりを大切にし、犠牲的精神、献身的精神で、この世で生活しましたから、良き感化を与えることができました。

〈ちょっと一言〉

 罪意識の鈍さが、数々の悲劇をこの世にもたらしていると思う。生半可な聖書知識のゆえにもたらす争いは、この世の争いよりさらに悲劇的だ。イエス様も、パリサイ人、祭司、律法学者たちには、ほとほと往生したようだ。自分もその中のひとりだと思うので、困っている。罪意識の鈍さに、心が痛い。神よ、助けてください。
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夏のオーバー・冬のストーブ
マタイ5:43~48
 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

 自分を愛してくれる人を愛することは、だれでもできます。しかし、自分を嫌っている人、あるいは、自分が嫌いな人を愛することは、肉の力では、絶対できないことです。
 キリストの赦しと十字架の愛を心から体験した者でないと、不可能なことだと思います。
 心から罪を悔い改めて、神を信じるとき、神が我々を、冬のストーブのように、人々を感化できる温かい人につくり変えてくださるでしょう。

〈ちょっと一言〉

 「渋柿や、丸八年の恩知らず」ということわざがあるが、最近ある人に、こういう、済まない忘恩の心で接し、大変傷つけることをしてしまった。
 渋柿も皮をむいて、日の光に照らされ続けると大変おいしい干し柿となるそうな。私も一皮も二皮もむかれて、愛の光をいつも全身に浴びていないと、悔いのみ残ると思う。
まず第一にすべきこと
マタイ6:33
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 主の心の中を占領していることは、人の魂の救いである。そして、もう一つ同じように、教会を愛されているということだと思う。キリストは、教会を花嫁として愛して命を捨てられたのです。ですから、我々がまず第一にすべきことは、救霊のことであり、教会生活を重んずべきだと思う。
 そして、その心のあり方は、誠実に神と人とを愛するということであります。

(ちょっと一言)

 人から、あなたはいつもまずいことをするとか、いつもうぬぼれていると言われると、いつもなんて言い過ぎや!と腹が立つことがよくある。
 しかし、ある人は、人からきついことを言われても、本当にその通りです、と少しも腹が立たないと言われた。この人は自分をよく見つめて、己の醜さ、汚れ、無価値を悟ったから、私のように色々と理由付けしないで、自分はチリ灰に過ぎないということを知っているのだろう。いつも、自分こそうなじのかたい者であるということを知っていたいものです。
自信をもて
イザヤ43:4
わたしの目にはあなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
だからわたしは人をあなたの代わりにし、
国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

ヨシュア1:1~9
 1さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。2「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。3あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。4あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。5あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。6強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。7ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所はどこででも、あなたが栄えるためである。8この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。9わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

 小さい者、弱い者、障害を持つ者、病気がちな者にとって、この世は、住みにくいです。けれど、聖書のことばから、神のみ思いを知ると、自信をもてるようになります。その一つが、神の目には、あなたは高価で尊いといわれています。
 二つ目が、全能者があなたとともにいて、あなたを守ると言われているからです。(ヨシュア1:5・9)
 我々が自信をもって生きるためには、聖書のことばを守り行うことが必要です。毎日、聖書を読んで味わっていると、内側に自信がわいてきます。胸を張って生きている自分を発見するでしょう。
三つの「ない」
イザヤ49:15~16
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。
自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、
このわたしはあなたを忘れない。
見よ。わたしは手のひらに
あなたを刻んだ。
あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。

 一つ目の「ない」は、神様は私たちを絶対忘れないということです。一番絆の深い親子関係でも、忘れているということはあります。しかし、神は決してあなたを忘れないと約束されています。
 二つ目の「ない」は、あなたのことを決して見捨てない、見放さないということです。

ヘブル13:5
・・・主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

人は、迷惑をかけられると思うと離れてゆきます。しかし、神だけは、私たちがどんなに失敗しても、役に立たなくなったとしても見捨てられません。
 三つ目の「ない」は、あなたへの変わらぬ愛は、決してあなたから移ることはない、ということです。

イザヤ54:10
たとい山々が移り、丘が動いても、
わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、
わたしの平和の契約は動かない」と
あなたをあわれむ主は仰せられる。

人は、人を変わらぬ愛で愛することは無理です。しかし、神だけは、あなたが心変わりしても、あなたへの愛は変わりません。
神が用意されているもの
ヨハネ14:1~3
 1「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

神は、我々の幸せのため、色々なものを用意してくださっています。

(1)永遠のすみかです。(2節) 神が完全にご支配なさっている神の国、天国は、私たちの永遠の居場所です。神は、いつもいっしょにいたいと、あなたのために永遠のすみかを用意してくださっています。

(2)明日を用意してくださっています。

マタイ6:31~34
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第1に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

明日がないという絶望感をもたれたことがおありでしょう。しかし神は、あなたのために明日を用意してくださっています。

(3)第1コリント2:9のみことばのように、驚くべき神様の用意です。一例を聖書から挙げますと、夜通し漁をしたのに一匹も取れず失望していた弟子たちに、153匹の魚を取れるようにしてくださいました。

第1コリント2:9
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。
「目が見たことのないもの、
耳が聞いたことのないもの、
そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、
神の備えてくださったものは、みなそうである。」
こだわり
第1コリント2:2
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

 こだわるということは、我々の人生の中でも大切なことだと思います。
 気迫ある生涯を送った使徒パウロのこだわりをお伝えします。

(1)十字架につけられたイエスキリストにこだわっています。

ガラテヤ6:14
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

 今までは、ピリピ3:5のように、誇るところがいっぱいありましたけれど、そんなものは実にくだらんということがわかりました。

ピリピ3:5
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれのものです。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、

(2)聖書にこだわっています。

ローマ4:3
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが神の義とみなされた」とあります。

ローマ10:11
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

ガラテヤ4:30
しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

 聖書はなんと言っているか。それが歩みの土台でした。

(3)信仰にこだわっています。ローマ書を読むと特にそうです。
 信じるというのは、関係のかなめです。神を信じる信仰にこだわっています。

ローマ3:21~28
 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
豊かな人生
ヨハネ15:1~7
 1わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。2わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。3あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。4わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。6だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。7あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

 ある人から、一房120粒もあるおいしいブドウをもらいました。主は、このぶどうの実のように豊かな実を結ぶ人生を教えてくださっています。

(1)ぶどうの木であるイエスにつながっていることが大事です。
生涯ずっとイエスキリストから離れないことです。

(2)豊かに実を結ぶため、農夫なる神は、刈り込みをされます。
刈り込みというのは、試練・迫害ということです。

ヘブル12:5~11
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。
「わが子よ。
主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、
受け入れるすべての子にむちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

(3)7節の約束です。我々がくじけないでついてゆけるように、主イエスは、「なんでも私に言いなさい。応えてあげるから」と語られています。
ともかくもやってみる
ルカ10:25~28
 25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」26イエスは言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたほどう読んでいますか。」27すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」28イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすればいのちを得ます。」

 聞くだけ、見るだけでは、やってみたという世界は、味わえません。トライした者こそ味わえる人生の醍醐味があるのです。イエス様は、28節で「それを実行しなさい」と言われています。では、聖書はどのようなことにトライしてみなさいと教えているでしょうか。

(1)福音を伝えることにおいてです。
マルコ16:15
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

(2)神を愛することにおいてです。全身全霊で、一日中、主を愛してゆきましょう。

(3)人を愛することにおいてです。とことん隣人を愛しぬいた、良きサマリヤ人に倣いましょう。

 これらを行うものは祝福を受けます。
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