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しかし、主よ
詩篇3

主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。
私に立ち向かう者が多くいます。
多くの者が私のたましいのことを言っています。
「彼に神の救いはない」と。 セラ

しかし、主よ。
あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、
そして私のかしらを高く上げてくださる方です。

私は声をあげて、主に呼ばわる。
すると、聖なる山から私に答えてくださる。
セラ
私は身を横たえて、眠る。
私はまた目をさます。
主がささえてくださるから。
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。

主よ。立ち上がってください。
私の神。私をお救いください。
あなたは私の全ての敵の頬を打ち、
悪者の歯を打ち砕いてくださいます。
救いは主にあります。
あなたの祝福があなたの民の上にありますように。
セラ


苦難の日に、つらいときに、この世の知恵、力、富でも、どうにもならないことがある。そんな時、人は、酒の力によって忘れようとする。けれど、それは本当の解決とならない。
ダビデは、四方八方、行き詰まったときには、必ず、「しかし、主よ」と上を見上げて、主の助けを信じた。
我々を、どんなときにも、「しかし、主よ」と呼び求めてゆくとき、回復してゆくのです。

〈ちょっと一言)
神は、曲がった者には曲がった者になり、ひねくれた者にはひねくれた者になるとあるが、これは、神が仕打ちをしているのではなくて、私たちの心がひねくれているのが問題なわけです。まっすぐな管には水はまっすぐ入るが、曲がりくねっている管にはそのように入りますね。どんな愛の言葉も、ひねくれた心には、意地悪な言葉としか受け止められないのです。そんな、ひねくれた心を直す方法は、自分の心がひねくれているということを知ることであり、また、曲がっているのではないかと心を探ることから始まってゆくと思います。
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見よ神の子羊
ヨハネ1:19~37

ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせた。彼は告白して否まず、「私はキリストではありません」と言明した。また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」彼らは、パリサイ人の中から遣わされたのであった。彼らはまた尋ねて言った。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その方の上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

預言者ヨハネは、イエス様のことを「見なさい。世の罪を取り除く神の子羊」と教えました。まさに、イエス様は、十字架に死ぬためにこの世に来られました。昔、罪を犯した人を赦すための方法として、牛、羊、ヤギなどが、全焼のいけにえとしてささげられていました。
咎も汚れもない神の子のイエス様が、我々の罪を全部背負い、身代わりに死なれましたので、あなたも私も罪赦されて、天国に入れていただける救いが完成したのです。
イエス様は、我々を愛するがゆえに、十字架の道、茨の道を、ひたすら歩み続けてくださったのです。苦しいとき、つらいとき、我らも、十字架にかかられたイエス様のお苦しみを覚えて、耐え忍びましょう。
十字架の愛によりて
ルカ23:32~43

ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

キリストの愛に迫られて、パウロは伝道に燃えました。
どんなに弱く、無力であり、愛のない人でも、一度、十字架上より流れてくるキリストの愛をたっぷり飲んだ人は、そのキリストの愛に押し出されるようにして、どんな人をも愛せる人に変えられるのですね。大悪党であった好地由太郎という人は、まさに変えられて、十字架の愛によりて生きていった人でした。

(ちょっと一言)
ドイツの指導者と伊藤博文との会話で、ドイツの指導者が、「私の畏れるものは神だけです」と言うと、伊藤総理は、「私はその神をも畏れない」と言って、あきれかえられたとか。
ある人が、私に「あなたは、人を恐れないけれど、神をも畏れていない」と言った。それを聞いて、私は恥じた。
なぜなら、神を畏れない人は、傲慢な人だからである。
幸せを願うあなたに
第二テモテ2:8

私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。

命を愛し幸せな日々を願う我らに取って置きの話です。聖書の教える幸せの秘訣の第一は、よみがえったイエスをいつも思って生きなさい、です。主は、生きておられる神ですから、我らの祈りに答えてくださいます。
二つ目は、いつも隣人のことを考えて生きなさい、ということです。

ピリピ2:4

自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。

いつも考えること、思うことは、自分の気持ちです。だから、わかってくれない隣人に腹を立てるのだし、不満が増えてくるのです。聖書は、人のことを思う心が幸せをもたらすと教えています。
三つ目は、天の御国のことをいつも思って暮らすことです。

ヘブル11:14

彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

第二ペテロ3:13

しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。


この望みがあるので、地上の生活がいかにつらくても、くじけないで歩めるのです。これらのことを心に思い温めて歩みましょう。
十字架上の7つの言葉
マタイ27:33~54

ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわって、イエスの見張りをした。また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」と言った。そのとき、イエスはもう1度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった」と言った。

1)父よ、彼らを赦し給え。ルカ23:34
2)ヨハネ19:26,27

イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に、「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

3)きょう、わたしとともにパラダイスに ルカ23:43
4)エリ、エリ、レマ、サバクタニ マタイ27:46
5)われ渇く。ヨハネ19:28
6)完了した。ヨハネ19:30
7)我が魂を御手にゆだぬ。ルカ23:46
この愛を知って人は真に生きる。

〈ちょっと一言)
ある人が、第三者の目で自分を見る訓練をしたら、自分に厳しく、人に親切に生きてゆける、と言われた。
確かに、そのようにしてゆけば、感情的にならないで、冷静に、してよいこと、悪いことがわかると思う。
神に近づけば近づくほど、自分の汚さがわかって、それに気がつくとなおってゆくからだと思う。私は神の目で自分を見てゆく訓練をしてゆきたいと決心した。
天に宝を積み上げなさい
マタイ6:19~21

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

イエス様は、我々に「地上に宝をたくわえないで、天に宝を積み上げなさい」と言われました。では、どんな宝を積み上げなさいと言われているのでしょうか。

(1)善行です。たゆみなく善を行いなさいと教えています。良い行いをすれば、神が天にて報いてくださいます。

(2)勤勉さです。勤勉で怠らずと教えています。「箴言」では、勤勉な蟻に学びなさいと教えています。

(3)陽気さです。同じ「箴言」に、「陽気さは、健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」と教えています。人を明るくする陽気さは、神の国では、宝としてカウントされ、報いてくださいます。

父なる神からご褒美をたくさんいただくために、これらのことを、暮らしの中で実践したいと思います。
然りは然り、否は否
マタイ5:33~37

さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、1本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

私たちは、とかく人の目を気にして、良心に恥じることでも、いやと言えずしてしまうことがある。
では、どうしたら、然りは然り、否は否、と言えるのだろうか。それは、人を恐れず、主を畏れた生活をする以外にないと思う。
マタイ10:28の御言葉が信念となっている人は、強い真実な生き方ができるのではないでしょうか。

マタイ10:28

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。


〈ちょっと一言〉
最近、ある人が、「自分の心には本心と良心があって、いつも良心を奥の方に押しやって、本心のままに生きていたから、迫力のない、つまらない生き方しかできなかった。だから、今度から、両親のほうを優先して生活するようにしたい。」と言われたが、本当にその通りで、私自分の心の中を上手に言い表しているなあ~と感心しました。
明日がある
マルコ4:35~41

さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

どんな人にも明日があるという希望のメッセージです。イエス様は、お弟子たちに「さあ、向こう岸に渡ろう」と言われました。向こう岸とは、最終的には、天の都のことを指しています。しかし、我々は、一日一日を歩んでいかねばなりません。その一日は、向かい風であったり、大暴風雨であったりして難儀するわけです。案の定、大嵐になって、船が沈没してしまうのではないかと弟子たちは恐れました。同じ状況の中でも、イエスは眠っておられたと記しています。恐れている弟子たちになく、イエス様にあるもの、それは、父なる神を信頼する心です。
どのような困難の中にも、全てを支配されているお方が、向こう岸に行こうと言われるのですから大丈夫、必ず守られます。
賢い人
エペソ5:15~16

そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。

神は、「賢い人になりなさい」と言われています。賢い人は、少なくとも3つのものを身につけています。

(1)信仰です。救い主イエスを信じる信仰を働かせることにより、どのような問題であっても、乗り越えることができます。

(2)希望を持っています。こうなってほしいという望みを抱いて歩みます。信仰の父と尊敬を受けているアブラハムも、永遠の神の都に住めるという希望を抱いて歩んでいました。

ヘブル11:13~16

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

(3)愛を実践しています。「使徒の働き」9章に、クリスチャンのタビタのことが記されています。彼女は、自分のできる裁縫で、貧しいやもめたちの下着や上着を編んであげていました。自分も周りの者たちも幸福でした。
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