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ほめられた人たち
ルカ21:1~4

さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

聖書の中に、主イエス様からほめられた人たちのことが載っています。今日は、その中から3人の人を選びました。我らもこの方々の生きる姿勢を学び倣うことは、真に実りある人生を送るためにも有益だと思います。3人に共通する言葉は、「すべて」です。では、1人目、この貧しいやもめは、生活費の全部をささげました。その行為に、自分を生かしておられる神への全き信頼があったがゆえにできたことだと思います。2人目は、ローマの百人隊長です。しもべの病気のいやしのために、イエス様の言葉を丸ごと信じました。3人目は、ベタニヤ村のマリヤです。主の贖いの十字架の死に、感謝して、香油を全部、惜しみなく注ぎかけました。
主に喜んでもらえるような者に、わたしもなりたい!
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聖霊を受けよ
使徒1:3~11

イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして,こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」


私たちの内に、争いがあり、ねたみがあり、本当の喜びも神の力も経験できないのは、聖霊による歩みをしていないからだと思います。
聖霊に導かれるためには、心が砕かれる必要があります。己の罪に悲しむとき、神は愛と赦しと力に満たしてくださり、あのステパノのように神に用いられる器となれるのです。

(ちょっと一言)
私は大変理由付けの多い人間でありました。人から「不愉快や」と言われたとき、私の心は、私なりに一生懸命やっているのに、どうして、そんなふうにしか見てくれないのかと、不愉快に思っていました。けれど、それが自己主張、理由付けであったことがわかり、本当に自分は自己主張の強い傲慢な人間であったことかと、今は素直に諦めています。
これならやれそうだ!
創世記 9:20~21

さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。

なぜ、こんな箇所を選んだかというと、こういう人でも、親として、信仰者としてやってゆけたのかと親近感を持ったからです。それなら、劣等生の私でも、「これならやれそうだ」「これならやってみたい」と思ったからです。
親というのは、木の上に立って見ると書きます。少し上から見ますと、視野が広くなります。近視眼的に物事を見ないで、全体的に物事を見ることができるということでしょうか。親として、「あそこに行こうよ!」と言える者にはなれそうです。

ピリピ3:14

キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

二つ目。いつでも、どんな時でも、神により頼む親にはなれそうです。

第一テモテ2:8

ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。


三つ目。目線を低くしたいと思いました。

エペソ6:4

父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。


いい親子関係を築くために、目線を低くすることが理解することになるからです。
海よりも深いもの
詩篇136:1

主に感謝せよ。
主はまことにいつくしみ深い。
その恵みはとこしえまで。


海よりも深いもの、それは、神のあなたへの思いです。いつもあなたのことを気にかけていますから、あなたの髪の毛の数さえ知っておられます。
海よりも深いもの、それは、主の恵みです。恵みというのは、神が人の働きや価値によらないで与えてくださる愛顧です。私たちがどのようにけがれ果てていても、不信心な者にも、神に敵対する者にも主の恵みは注がれています。
海よりも深いもの、それは、主の知恵です。

イザヤ40:28

あなたは知らないのか。聞いていないのか。
主は永遠の神、地の果てまで創造された方。
疲れることなく、たゆむことなく、
その英知は測り知れない。

この知恵をもって、我々の人生を良き方向に導き、幸いを与えてくださいます。創世記に書かれているヨセフ物語をお読みください。そのことがよくわかります。だから、今の苦しみ、試練を耐え忍びたいと思います。やがて希望の朝を迎えることができるでしょう。
神の国にふさわしくない者
ルカ14:25~35

さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」

神を信じる者としてふさわしくない者は、

1) 神への使命より、人の情を優先させる者

2) 十字架の道(犠牲)をさける者

3) 二心の者

ですから、私たちはキリスト一筋の生き方をしたいものです。

(ちょっと一言)

ある人が、「私の行き詰まりは、いつも、神の最良の機会であった」と言った。私たちが夜と思える暗い時が、神が光を与えるときだというのです。確かに、ホセア書にも、私たちをかき裂くのは、私たちをいやすためである、と言われています。神の愛の手にすがりましょう。
救い主イエスの母として選ばれたマリヤに学ぶ
ルカ1:26~38

ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダヒデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。


数ある処女の中で、マリヤが救い主の母として選ばれました。もちろんダビデの家系のヨセフのいいなずけであったことが前提でしたが、信仰が深かったからでもあると思います。信仰の深さは、生活の強さにつながります。なぜなら、生きるための色々なエネルギーを神から受ける管だからです。
では、なぜ信仰が深くなったのでしょうか。1つは、事が起こると思い巡らすのが常だったからです。聖書を聞く、読むとき、練りはんでいたから、みことばがマリヤを成長させたのだと思います。そして、お祈りも信仰が深まる要素になると思います。信仰生活は、神から力を受ける受け身の生活です。神があなたを支えてくださいます。
何のための悩み
ヨハネ15:1~5

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。


悩みによって人が学ぶこと
1)自己反省
2)謙遜になる
3)思いやりの深い人になる
神は私たちの益のため、痛い訓練を通される。苦しみは、自分のための修練の時である。

(ちょっと一言)
母の日に思い出す言葉は、「一億人に一億の母あれど、我が母にまさる母はなし」である。この年まで、ずいぶん世話をかけ、金を使わせ、気を使わせただろう。母の恩を感謝す。そして、この母を我が母として賜った神に深い感謝を表したい。「あなたの父と母を敬いなさい」(出エジプト20章)
いつまでも残るもの
第一コリント13:13

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

創世記に記されているヤコブ、後のイスラエルの生涯は、一言で言うと、波乱万丈の生涯でした。ヤコブは、天に召される日が近づいたとき、12人の子どもらを呼び寄せ、一人一人に祝福を祈り、眠るように御国に帰ってゆきました。
147歳のよぼよぼの身体を杖で支え、天地の神を礼拝し、賛美し、祈り召されてゆきました。色々なことがありましたが、このヤコブを支えてきたものは、主なる神を信じる信仰でした。そして、御国に住めるという希望でした。そして、いつまでも残るものの最高峰は、愛です。
神の愛、人の愛を心に刻みながら、天へのぼっていきました。私たちも、神を愛し、隣人を愛して、日々、歩みましょう。
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