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生き方チェック
第一コリント9:23~27

私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。


電車の運転手は、安全チェックをしながら運転しています。聖書は、我々に生き方チェックを勧めています。

(1)信仰チェックです。
第二コリント13:5

あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか―あなたがたがそれに不適格であれば別です。―

私たちの生きてゆく力は、全部、上から来るからです。神の力を受ける管が、信仰です。

(2)自分チェックです。
第一テモテ4:6

これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になります。信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばとによって養われているからです。

神の使徒パウロも、失格者にならないために、自分の体を打ち叩いていると言っています。朽ちない冠を得るために、辛抱、辛抱、と自分に言い聞かせていたのでしょう。

(3)再臨待望チェックです。
黙示録22:7

「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

黙示録22:12

「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

黙示録22:20

これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

主イエスは、「見よ。わたしはすぐに来る」と三度、言われています。この主を、待ち望みましょう。
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これはすごい!
ヨハネ6:35

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じるものはどんなときにも、決して渇くことがありません。

すごいと思うことは、歴史の中で、世界の中で、少なからずありますが、ヨハネの福音書の中で、イエス様がご自分のことを「わたしは~である」と言われた言葉ほど、すごいものはない!と私は思います。

(1)「わたしは、命のパンです。」私たちの身体を養う食べ物は必要です。しかし、私たち自身が幸せに感じる心を豊かにするのが、イエスを信じる心だということです。

(2)「わたしは、世の光です。」今の世界は、希望の光、愛の光が必要です。キリストが来られたら、闇は消えます。

(3)「わたしは、道です。」私たちは、生き方に迷います。キリストは、正しい生き方を教えてくれます。また、天国に通じる道でもあります。
実りある人生
ルカ 8:4~15

さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。また、別の種はいばらの真ん中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」 イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれた。
さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

私たち誰もが実りある人生を送りたいと思っています。主イエスは、この「種まき」のたとえ話から、そのことを教えてくれています。

(1)聖書に聴く人は、実を結ぶということです。
ただ単に聞くだけではなく、生活の中で、神のことばを当てはめて生きようと努める人は、豊かに実を結びます。

(2)良い心を持つことによって実を結ぶことができるようになるということです。
イエス様が語っておられる、良い地とは、良い心のことです。良い心とは、神は私たちの人生に起こってくる様々の事どもを私にとって益となるものにしてくださるという信仰のことです。
祝福された生涯
創世記26:25

イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。


ここに登場している人物、イサクは、神から祝福を一杯受けています。100倍の収穫を得、荒野の生活に欠かせない、水、数々の井戸を得ています。そして、周りの者たちに、「彼には神がついている」と言わしめるほど、一目置かれています。このような祝福をなぜイサクは受けることができたのでしょうか。それが、この箇所に書かれていることです。まず何よりも大事にしたのが、神を礼拝することでした(祭壇を築きました)。次に、家庭を大事にしました(家庭生活を営むために天幕を張りました)。そして、井戸を掘りました。これは、仕事です。この祭壇、天幕、井戸の順序が、祝福を受ける秘訣です。大事なものを大事に守っていかないと、やがて、失われてゆきます。限りある人生です。悔いのないように、この教えを大切に過ごしましょう。
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