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うなじのこわい民
詩篇106:13~39

しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、
そのさとしを待ち望まなかった。
彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、
荒れ地で神を試みた。
そこで、主は彼らにその願うところを与え、
また彼らに病を送ってやせ衰えさせた。

彼らが宿営でモーセをねたみ、
主の聖徒、アロンをねたんだとき、
地は開き、ダタンをのみこみ、
アビラムの仲間を包んでしまった。
その仲間の間で火が燃え上がり、炎が悪者どもを焼き尽くした。

彼らはホレブで子牛を造り、
鋳物の像を拝んだ。
こうして彼らは
彼らの栄光を、草を食らう雄牛の像に取り替えた。
彼らは自分たちの救い主である神を忘れた。
エジプトで大いなることをなさった方を。
ハムの地では奇しいわざを、
葦の海のほとりでは恐ろしいわざを、
行われた方を。
それゆえ、神は、
「彼らを滅ぼす」と言われた。
もし、神に選ばれた人モーセが、
滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、
御前の破れに立たなかったなら、
どうなっていたことか。

しかも彼らは麗しい地をさげすみ、
神のみことばを信ぜず、
自分たちの天幕でつぶやき、
主の御声を聞かなかった。
それゆえ、主は彼らにこう誓われた。
彼らを荒野で打ち倒し、
その子孫を国々の中に投げ散らし、
彼らをもろもろの地にまき散らそうと。

彼らはまた、バアル・ベオルにつき従い、
死者へのいけにえを食べた。
こうして、その行いによって御怒りを引き起こし、
彼らの間に神罰が下った。
そのとき、ピハネスが立ち、
なかだちのわざをしたので、その神罰はやんだ。
このことは、代々永遠に、
彼の義と認められた。

彼らはさらにメリバの水のほとりで主を怒らせた。
それで、モーセは彼らのために
わざわいをこうむった。
彼らが主の心に逆らったとき、
彼が軽率なことを口にしたからである。

彼らは、主が命じたのに、国々の民を滅ぼさず、
かえって、異邦の民と交わり、
そのならわしにならい、
その偶像に仕えた。
それが彼らに、わなであった。
彼らは自分たちの息子、娘を
悪霊のいけにえとしてささげ、
罪のない血を流した。
カナンの偶像のいけにえにした
彼らの息子、娘の血。
こうしてその国土は血で汚された。
このように彼らは、
その行いによっておのれを汚し、
その行いによって姦淫を犯した。


聖書を読むとき、人の話を聞くとき、上の空では、霊的な成長はできない。いつも我がこととして学びたい。
自分は強情な者だと認めていないと、主から、「いつもあなたがたは不信の民であった」と言われると、そんなことはないと反発を感じるのではないだろうか。
自己の真相を、もっと、もっと深く見つめる者でありたい。

(ちょっと一言)
―神の御前に価値あるもの―
第一ペテロ3:3~4

あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄を飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。


商品でも、外見はおいしそうに見えても、中身がまずかったら、受けるショックは大きい。人柄でも、外面的な美しさより、内面的な美しさ(柔和さ、敬虔さ)の方が貴重である。
内側を整えず、外側ばかりを着飾ると軽薄に見える。内にあるものが外ににじみ出ることを覚えて、心の中の隠れた人柄をきれいにしたいものですね。
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悩みを希望へと転換してくれるキーワード
ルカ5:1~11

群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、その通りにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。


私たちは、生きてゆく中で、色々な問題にぶつかり、悩みます。この悩みを、希望へと転換してくれるキーワードは、「活ける神の子キリスト」というお方です。シモンは、昨夜、夜通し働いたのに、収獲はゼロでした。疲れていました。そのシモンに、イエスは「深みに漕ぎ出して漁をしなさい」と言われました。昨夜した事と同じことです。ただ違うことは、イエス様がそばにおられ、イエス様がそうしなさいと言われたことです。そのとおりにすると、二そうの船が沈みそうになるぐらい魚がとれました。イエス様と生活をともにすると、毎日同じことをしていても、けだるさは消えて、勢いが与えられて充実感が増すことでしょう。
死のかなたにあるもの
第二コリント5:1~11

私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからではなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。

すべての人には終わりがあります。パウロ先生的に言うならば、地上の幕屋が壊れる時があるということです。しかし、我らには、神の下さる建物があるのです。

死のかなたにあるもの。

(1)天上のからだがあるということです。天上のからだは、栄光のからだです。

(2)あなたの居場所があるということです。

ヨハネ14:1~3

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

主イエス様のそばほど、居心地の良い場所はありません。

(3)「わたしはある」という方がおられるところです。

黙示録21:3

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、

光の中に住まわれる栄光の神を目の当たりにできる、想像を絶する喜びです。
ダビデの人生に学ぶ
詩篇16

神よ。私をお守りください。
私は、あなたに身を避けます。
私は、主に申し上げました。
「あなたこそ、私の主。
私の幸いは、あなたのほかにはありません。」

地にある聖徒たちには威厳があり、
私の喜びはすべて、彼らの中にあります。
ほかの神へ走った者の痛みは、
増し加わりましょう。
私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、
その名を口に唱えません。
主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。
あなたは、私の受ける分を、
堅く保っていてくださいます。

測り綱は、私の好む所に落ちた。
まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
私は助言を下さった主をほめたたえる。
まことに、夜になると、私の心が私に教える。
私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、
私はゆるぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び、
私のたましいは楽しんでいる。
私の身もまた安らかに住まおう。

まことに、あなたは、私のたましいを
よみに捨ておかず、
あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
あなたは私に、いのちの道を
知らせてくださいます。
あなたの御前には喜びが満ち、
あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。


神にことのほか愛されたダビデは、神を中心に人生がまわっていました。その熱き思いが、詩篇16:8です。

詩篇16:8

私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、
私はゆるぐことがない。


(1)いつも主を前において生活していました。それゆえに、いかなる困難、問題が起こってきても、最終的には、立ち上がることができたのです。

(2)いつも自分の罪を目の前において生活したことです。だから、神の前に謙遜に、人に対しては寛容に歩めたのではないでしょうか。反対に、自分の正しさを目の前に置くと、人が足らんように、人がおかしいように思えて、非難します。これでは、関係が気まずくなって殺伐とした荒れ地を行くような人生を歩むことになってゆくことでしょう。
ナオミの人生に学ぶ
ルツ1:1~5

さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。

この世の生活は、苦しいこと、つらいことが多いです。ナオミの人生もそうでした。飢饉があり、やむなく異郷の地で暮らさねばなりませんでした。しかも、ご主人を亡くし、息子二人まで、続けて亡くすという辛酸をなめなければなりませんでした。このように苦しみが続く中でも、ナオミは、自分がいる所をできるだけ居心地良くするように努めています。それゆえに、嫁二人とは、とても仲の良い関係を築けています。二つ目は、小さな信仰の灯りであったかもしれませんが、ともかくも、主の守り、助けを待ち望んで生活したことです。その信仰生活が、苦しみの多い人生を支え、後に記されているような、くしき神のみわざを味わう経験につながったのです。
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