スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
先に逝った方の、この地上に残せし人への思い
ヘブル411:13~16

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。


人は生まれ、山あり谷ありの人生を送り、やがて後の世に行かねばなりません。我々より先に逝った方の、この地上に残せし人への思いは、いったいどんなことでしょうか。

(1)「また会いたいね。」このヘブル書11章に登場する人々は、信仰の人として生き、死にました。天の御国でまた会おうと我々を待ってくれています。

(2)「仲良く暮らしてほしい」ということだと思います。

(3)「どんなに辛くても苦しくてもくじけないで生き抜いてほしい」ということだと思います。たった一人しかいない自分、たった一度しかない人生を諦めないでゴール目指して歩んでまいりましょう。
スポンサーサイト
悩み多き人生の中で、どう生きる!?
第一サムエル30:1~6

ダビデとその部下が、三日目にツィケラグに帰ってみると、アマレク人がネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。彼らはツィケラグを攻撃して、これを火で焼き払い、そこにいた女たちを、子どももおとなもみな、とりこにし、ひとりも殺さず、自分たちの所に連れて去った。ダビデとその部下が、この町に着いたとき、町は火で焼かれており、彼らの妻も、息子も、娘たちも連れ去られていた。ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。ダビデのふたりの妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。

ダビデの人生に、思いがけない出来事が起こりました。その出来事のゆえに、ダビデは非常に悩んだと記されています。今まで苦楽を共にしてきた仲間たちから、「お前のせいでこうなったんだ」と詰め寄られて、命の危険を感じていたからです。この悩みの中で、ダビデはどうしたのでしょうか。

(1)「神によって、奮い立った。」 つまり、みことばと祈りによって、この苦境を乗り越えることができました。

(2)主から賜ったものを、分かち合いました。ダビデの人生観は、「主が私たちに賜ったもの」、それを互いに分かち合うことを心がけていました。
聖書の教える子育てのすすめ
エペソ6:4

父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

作物を育てる、花を育てるにしても、苦労と喜びが交差します。子育てに関しても、苦労と喜びが交差します。命をはぐぐむということは、一生ものだと思います。では、どのようにわが子の命を育んでゆけばいいのでしょうか。

(1)「主の教育と訓戒によって育てなさい。」聖書を人生という家の土台とすることです。「聖書は、こういっているよ。」アブラハム・リンカーンの母親がそうでした。

(2)目線を合わせるということです。

第一コリント9:20~22

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、―私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが―律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。

何のために、そうするかというと、より良い関係を築くためです。目線を合わせると、同じ風景が見られて、喜びと悲しみを共有できるからです。
困ったとき、どうします?
ヨハネ2:1~11

それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、―しかし,水をくんだ手伝いの者たちは知っていた―彼は花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。


私たちの生活の中で、困ること、うろたえてしまうような目にあうことがあります。そのような時、どうしますか?マリヤさんも婚礼の最中に、ぶどう酒がなくなるというような困ったことがおこりました。そのとき、マリヤさんは、どうしたでしょうか。

(1)祈りました。問題そのものを、「ぶどう酒がありません」と、主にお願いしました。祈ったら、次にすることは、(2)期待して待つことです。そうしたら、主が身を乗り出して、みわざをなしてくださいます。
ただ、主のなさり方は、人知をはるかに超えています。ぶどう酒を求めたのに、水を水がめ一杯に満たしなさい、と言われました。私たちの願う門は閉ざされたように思えますが、別の門が開かれていました。それが、幸いでした。
天的知恵
箴言9:10

主を恐れることは知恵の初め、
聖なる方を知ることは悟りである。

この世を見渡すと、知識人は大勢見受けられますが、人を生かす知恵深い人は、少ないように思えます。
真理を教え、人を生かす知恵は、いったいどうしたら得られるのでしょうか。それは、知恵の源である神から来ます。主を畏れることが知恵の初めです。

(ちょっと一言)

私はずるいから、いつも甘い方へ逃げようとする。また、流されてしまう。ちょっと注意されると、自分なりの言い訳を作って、「こんなにしたんだから、そんなに言わなくても」と、面白くない思いがある。この自我が悩みの種である。十字架にイエスと古き人が死ぬ以外に解決はない。
あなたの生きてゆく力は、どこから?
使徒3:1~10

ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右の手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

毎朝、毎朝、起きる時、あなたの生きる力は、どこからきますか?この男の人は、生まれつき障害を持って、人生をスタートしなければなりませんでした。この障害のゆえに、心傷つき、生きる意味を見失って、うつむき加減に生きていました。しかし、イエス・キリストの名によって、劇的な変化を受けました。

(1)イエスを主と信じますと、生活に張りが生まれます。くるぶしが強くなり、躍り上がり、神を賛美しています。

(2)生活の力は、金銀から来るのではなく、ナザレのイエス・キリストの名を信じる信仰から来ます。
Copyright © 人生と聖書. all rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。