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ただ、お言葉をください
ルカ:7:6~7

イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。


神は人と違って、言われたことは必ず守ってくださる真実な方です。そして、私たちに最善のことを、その時その時してくださいますから、神の言葉に信頼して従ってゆきましょう。また、召しと祝福とはついてくるものですから、神は私たちを祝福しようと召してくださるのですね。

〈ちょっと一言〉

箴言20:30

傷つくまでに打てば、悪い所は清くなり、むちで打てば、心の底までも清まる。

この言葉は、その人のことを思って、本気で叱ることが大切であることを教えています。私など、腹立ち紛れに感情で怒るので反感が残るのみ。叱るときは本気で、心を良くするために叱れ。
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あなたもイキイキした人になれる
詩篇52:8~9

しかし、この私は、
神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。
私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。

私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。
あなたが、こうしてくださったのですから。
私はあなたの聖徒たちの前で、
いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。

ダビデは、ドエグという人物の悪意ある告げ口によって、窮地に陥りました。ダビデは、動揺しました。神との交わりの中で、オリーブの木を示され、力づけられたのです。オリーブの木のようにいつもイキイキした人になるために。

(1)どんな時にも神の恵みにより頼んで生きるということです。

詩篇52:1

なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。
神の恵みは、いつも、あるのだ。

詩篇52:8

しかし、この私は、
神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。
私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。

(2)神に感謝して生活することを心がけていたということです。

詩篇52:9

私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。
あなたが、こうしてくださったのですから。
私はあなたの聖徒たちの前で、
いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。

(3)どんな時にも神が働いてくださることを待ち望んで生活することです。

詩篇52:9

私はあなたの聖徒たちの前で、
いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。


ダビデは、この3つのことを心に留めて進んでいきましたから、この窮地を乗り越えてゆけました。
世の光なる主イエス
ヨハネ9:1~11

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」ほかの人は、「これはその人だ」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで行って洗うと、見えるようになりました。」

エルサレム神殿の出入り口に座って物乞いをしていた生まれつきの盲人と主イエス様との出会いを通して、聖書は、いったい何を教えようとしているのでしょうか。

(1)主イエスは、あなたを見つめられているということです。この人の、言うに言えない悩みを、心の傷を見て、聞いて、良き人生に導くために来られたのです。

(2)あなたの人生には意味があるということです。

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。

この人の存在が、
多くの苦しんでいる人の望みとなりました。障害があるということが問題ではなく、神なき人生を送っているということが問題なのです。

(3)主イエス様こそ、私たちの暗さを照らす光です。たとえ、行く道が真っ暗で不安であったとしても、死んでよみがえられたキリストが共にいてくださったら、安心です。
幸せを求めた男
ルカ19:1~10

それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は,失われた人を捜して救うために来たのです。」

人は、幸せを求めて生きています。ザアカイは、その幸せの土台を、お金に置きました。求めていたお金は使い切れないぐらいたまりましたが、心から願っていた幸せは得られませんでした。反対に、皆からあくどいやつと嫌われ、本当の友達も一人もいませんでした。そのザアカイに声をかけ、「今日あなたの家に泊めてもらえないか」と主イエスは、語られたのです。
人は、この優しさに心動かされ、生活が変わってゆくのだと思います。ザアカイは、イエス・キリストと出会い、求めていた真の幸せをつかむことができました。あなたの造り主なる神は、あなたの名を呼んで、「私と共に、歩もうじゃあないか」と慈愛の目を向けてくださっておられます。
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