スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
暗い気持ちが晴れやかに!
第一サムエル1:1~10

エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。この人はエロハムの子、順次さかのぼって、エリフの子、トフの子、エフライム人ツフの子であった。エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はぺニンナと言った。ぺニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、主の祭司ホフニとピハネスがいた。その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のぺニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。しかしハンナには特別の受け分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。彼女を憎むぺニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ぺニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」
シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。


私たちは、生きてゆく中で色々なことで悩みます。人間関係がうまくいかないことは深刻な悩みです。そのふさがれた道を主は「エパタ」(開け)と開いてくださいます。ハンナは、ぺニンナの嫌がらせを度々受けて、食事ものどを通らないほど悩み苦しみました。その悩みの中で、ハンナはどうしたのでしょうか?
ハンナは、万軍の主に向かって祈りました。我々も、これに学ぶことはできないでしょうか。主は、その祈りに答えて、閉じられていた胎も、ふさいでいた気持ちも、「エパタ」と開いて、ハンナに平安と喜びをお与えくださいました。生まれた子の名を「サムエル」(主は聞かれる)と名付けました。
スポンサーサイト
一人の責任
士師記6:11~15

さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」

自分の弱さを知っている私たちは、私一人ぐらいがやっても、何の力の足しにもならないのではないかと、やらない先から諦めていることが多いと思います。しかし、「まず、私から」一人の責任を良心に従って果たすべきではないかと思います。そこに、神の国の働きは前進してゆくのですから。

〈ちょっと一言〉

「己の果たすべき義務を人にやらせることは、悪魔の喜ぶところなり」 マルチン・ルター
あなたでないとできないこと、あなたでないと意味がないことなのに、その責任を取らないで逃げることは、あなたの人間性をダメにしてゆくと思う。
勇気を持って、己の為すべき善を為すべし。
至れり尽くせりの愛を受けた者として
ルカ15:11~24

またこう話された。
「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん、私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大飢饉が起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。


父親にそむいて、自分勝手に生き、行き詰まってしまった息子を、この父親は、無条件に赦し受け入れ、再びわが子としての特権の、指輪を与え、共に生きるようになりました。この息子は、あなたのことであり、父親は、私たちの造り主のことです。この愛を受けた者として、どう生きましょうか。

(1)「この福音のためなら、どんなことでもします」という心意気で生きてゆきます。

第一コリント9:23

私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みを受ける者となるためなのです。

(2) 「私も、私の隣人を愛して生き抜きます」という心意気で生きてゆきましょう。

ヨハネ13:34

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

このように生きてゆこうではないか!
ピリピ3:12~14

12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。13兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

人生を、マラソンにたとえて、「このように生きてゆこうではないか」と聖書は勧めています。

(1)天国というゴールめざして、生きてゆこうではないか。(ピリピ3:14)

(2)最後まで、耐え忍んで走りぬこうではないかと勧めています。過去の信仰者たちがそうでした。最後まで、辛抱して走りぬくためには、どうしたらよいのかを、ヘブル12:1~3で教えてくれています。

ヘブル12:1~3

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

(3)自分のペースで走りぬいてゆこうではないかと勧めています。神は、預言者ダニエルに向かって、あなたは、あなたらしく生きなさい、と勧めています。人と比べないで、自分らしく生き抜いていきましょう。
私は、バラバ
ルカ23:18~19

しかし彼らは、声をそろえて叫んだ。「この人を除け。バラバを釈放しろ。」バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた者である。

バラバは、悪い人でした。殺人の罪で死刑に決まっていましたが、キリストが代わりにバラバのかかる十字架で処刑されたので、バラバは赦されて自由放免になったのです。私たちは、自分のことは棚に上げて人を裁きやすいですね。けれど、いつも問題なのは人ではなく、神の前に自分はどうかということです。

(ちょっと一言)

私は、心が怠け者だから、考えもなく何かを言って人をグサッと刃物で刺すようなことをする。あるいは、同じ失敗を繰り返してしまう。
どうしたら、研ぎ澄まされた良心を持つことができるのだろうか。やはり、物事を注意深く見つめ、日々反省して真剣に生きることだと思う。
あなたの生きてゆく力はどこからくるの?
第二列王記6:1~7

預言者のともがらがエリシャに、「ご覧のとおり、私たちがあなたといっしょに住んでいるこの場所は狭くなりましたので、ヨルダン川に行きましょう。そこからめいめい一本ずつ材木を切り出して、そこに、私たちの住む所を作りましょう」と言うと、エリシャは、「行きなさい」と言った。すると、そのひとりが、「あなたもどうか、思い切ってしもべたちといっしょに行ってください」と言ったので、エリシャは、「では、私も行こう」と言って、彼らといっしょに出かけた。彼らは、ヨルダン川に着くと、木を切り倒した。1人が材木を倒しているとき、斧の頭を水の中に落としてしまった。彼は叫んで言った。「ああ、わが主。あれは借り物です。」神の人は言った。「どこに落としたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切って、そこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。彼が、「それを拾い上げなさい」と言ったので、その人は手を伸ばして、それを取り上げた。


人には、様々な人生設計があると思います。自分たちの住んでいる場所が狭くなってきたので、もっと大きいものを建てようという人生設計です。借りてきた斧で、木を切り倒していたとき、斧の頭が川の中に落ちてしまったというハプニングです。斧の頭は、生きる力を象徴しています。失った斧の頭を一本の枝によって取り戻しました。この枝は、キリストの十字架の御姿を象徴しています。場所が狭くなったというのは、生きづらく感じている人の心を表しています。赦せない、愛せない、と息苦しく感じるとき、主が私を赦してくださったのだから、私も赦します、愛します、と不思議に心穏やかになってきます。
あなたを大切に思っていてくださるお方
ヨハネ6:1~13

その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。

この出来事は、4福音書全てに記されています。よほど神は、この出来事を通して大切なことを教えたいようです。「あなたのことを大切に思ってくださるお方」の第一は、主は、喜んであなたを迎えられるということです。

ルカ9:11

ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。

イエス様の元に来た人々は、みなわずらわしい問題を抱えてそれを解決してほしいと思ってやってきていたわけです。それらの人々を皆喜んで迎えられました。第二は、あなたがひもじい思いをしないように思い図ってくださるということです。このひもじさは、腹が減るひもじさと心が病む辛さのことです。主は、両方の飢えを満たして、生き生きとした人生に変えてくださいました。
Copyright © 人生と聖書. all rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。